5章6話 『二人』 *

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5章6話 『二人』 *

【新帝国歴1131年5月15日 アリーシャ】  その夜のことだ。 「…………」  私はベッドで寝返りを打ちながら、どうしても寝付かれなかった。今の私の部屋だけど、公宮内の奥まった一角にある一室だ。重要な家臣が宮廷で起居する際に当てがわれるような部屋で、そんなに広くはなかったけど、品の良い調度が設えられていていて、過ごしやすい部屋だった。エックハルト様もこんな感じだったような気がする、だからあの人と今の私の立場は近いのかもしれない。幸いエックハルト様の部屋と私の部屋は公宮の反対側に位置していて、容易に行き来はできなかったのだけど。  本来そのことも、ちゃんと考えるべきだったのだ。エックハルト様はあれだけリヒャルト様のために毎日立ち働いていて、もしかしたら一番貢献している家臣かもしれない。一方の私はどうだ? 学問上のなんらかの貢献はしている、だけどエックハルト様の働きにはおよそ及びもつかないだろう。こんな下にも置かない扱いをされるだけの価値があるのか?  つまり、メイドでなくなった時から、折込済みだったということだ、この『公妾』の立ち位置は。もしかしたら最初に職階を上げる話が出た時からそうだったのかもしれない。 「……酷いよ」  私はそんな風に呟く。  本当に酷いことなんだろうか? それは正直なところ、よく分からなかった。この世界では、当たり前の話なのだ。身分違いの恋の成就なんか期待してはならないのだから。それに生活水準の保証、それは決して小さくない問題だ。毎日人の作ったものを食べて、人が用意してもらったものを着て、その立場に甘えるからには、不利益だって甘受しなければならない。  じゃあこの状況を受け入れるべきなのか。何も思わず、何も感じず、ただ与えられた生き方を与えられた通りに生きるべきなのか。誰にも相談できない、でも誰かに言いたい、言わなければ爆発してしまう。  でも、それって誰? お父さん? お母さん? それとも弟? 重要なことだから、家族には相談しなければならないかもしれない。でも相談したいのか? 一族の名誉だから甘んじて受けろと言われたら、それこそ逃げ道がなくなってしまう。じゃあ、娘を何だと思っているんだ、今すぐ家に帰って来いと言われたら。それも事実で、そう言われたら、それはそれで選択肢がなくなってしまう。じゃあ、お前がお前の意志で選択しろと言われたら? それでは、最初の問題に立ち返ってしまう。 「……若葉」  私は呟く。私が一番気兼ねなく相談できて、今の私の状況に一番明確な答えを持っていそうな彼女の名前を。  私であって私でない彼女、29歳の女性である新井若葉だったら、どう考えて、どう答えを出すのか。私は若葉であって若葉でなくて、私は私の人生を生きる私だけど。でも、若葉の得てきた知識、それから経験してきた苦境から、彼女だったらどう考えてどういう答えを出すかをシミュレーションできる。そうだ。 『やっと、気付いてくれた』  私はそんな声を聞いた気がする。 「え……?」  私は思わず身を起こす。私のすぐ前に、彼女は立っていた。目の前の若葉の姿は薄緑の燐光を放っていた。それに体が半分透けていて、向こう側の空間が見えている。 「幽、霊……? え? 若葉?」  私は混乱する。若葉は死んでいるのだから、幽霊で現れても不思議はない。いや、不思議ではあるか? でも魂が生まれ変わっているのに、それとは別に幽霊で現れたら、やっぱり辻褄が合わない気がする、幽霊のシステムは正直よく分からないけど。 『細かいことは気にしない。あなたの中には私がいるんだから、時々は目に見えたって不思議じゃないでしょ? こんな時だし少しはいいでしょ、因果律を越えたって』 「……若葉、らしいね」  私は少し微笑む。私の目に見えている彼女の笑顔で、やっと少し緊張がほぐれた気がした。 『そうだね、この問題は整理しておこうか。客観的に見たときに、私たちの立場がどうなのか』  それから、『若葉』はこんな話を、私に向かって語ってくれた。 【新帝国歴1131年5月15日 若葉】  君主は政略結婚の駒、それは、アリーシャがその時考えていたよりもずっと、文字通りの意味でそうなのだ。特に、ランデフェルトのような小国にとっては。  この世界で君主が国家に対して支配権を持っている理由って、君主が君主だと認められてきた歴史的な経緯以外にはない。要するに思い込みの力だ。君主が君主たりうるには、その思い込みの力を最大限行使するしかない。そうでなければ、人の上に置かれ、保護され、たとえ国家全体が死の危機にあったとしても他者の生命を賭して守られるような理由はない。  政略結婚、正当な君主たる血筋の強化もその一環だ。だから、たとえヴィルヘルミーナ様と婚約解消したからって、その義務が潰えたわけじゃない。だからアリーシャとの恋愛関係の発展とはならなかった。リヒャルト様が好きだとアリーシャに告げるのであれば、その先にあるのは恋愛結婚じゃなくて『公妾』の座だった。リヒャルト様の支配権を支えるような『然るべき裏付け』、それなしに彼が自分の意志を通すことは難しくて、またこの政略結婚ゲームにアリーシャを巻き込むことになってしまう。 リヒャルト様はそれを理解していて、だから曖昧な態度しか取っていなかったんだと思う。  だけど、そんな本人の思惑だけでは物事は運ばない。『公妾』の要請自体が宮廷から出たものだと思った方がいいだろう。公妾の地位は国家予算の拠出によって保証されている、つまりもし私達が邪魔になったら、彼らは私達を今の地位に置いてはおかない。その覚悟はしておいた方がいいだろう。  これはジャガイモの原種輸入の件での立ち回りを考えても理解できる話だ。私達の言い分を通させるため、リヒャルト様の方が公妾に推挙する、それは理屈に合わない。だって彼らが私達の政治への口出しの方を阻止したいのであれば、身分が公妾だろうと提案を聞くわけがない。もしすでに権勢を得ているのならそれも分からないけど、吹けば飛ぶような身の上であることはなんの変わりもない。  だからこれは納得ずくで進められた話だった。宰相殿にとっては一石二鳥だったという、それだけのこと。ここで重要なことは、宰相殿はその職責においてもっとも合理的な選択をしていて、格別な悪意で物事を歪めているわけではないことだ。そうだとしたら、私達は犠牲を払っても逃げなければならない。愛よりも選択よりも、大事なのは生きているアリーシャの人生だ。でも多分、そうではない。この世界は、当然の権利であるかのように、凄まじく剣呑な選択を不意に人間に強いてくる。そのゲーム盤の上で皆生きていて、存在意義を探して足掻いている、それはリヒャルト様もエックハルトも、それからきっと宰相殿だって同じなのだ。 「…………」  そんな私の言葉に、アリーシャは黙って、爪を噛んでいる。 『……ごめんね。完全に救いになるような話はしてあげられない』 「いいよ」  そう言ってアリーシャは顔を覆う。  で、なんで私たちが存在として分離していて、こんな状態にあって、こんな会話をしているのかって? これは夢なのだ。アリーシャは疲れて、自分で気がつかないうちに眠ってしまっている。夢は位相の違う現実なのか、それとも脳の働きでしかないのか、それは私たちには分からない。でもアリーシャも若葉も、確かにアリーシャの頭の中には存在していて、アリーシャが自分自身の中で結論を出すことだけがこの場で重要なのだから、今はこの夢が現実でなくても、一向に問題はないのだ。  なおもアリーシャは黙っている。その様子に、私はこの後で言いたかった言葉を引っ込めることにした。  アリーシャを妾にしたい、それは必ずしもリヒャルト様の本意ではなかったし、それはアリーシャも一応は理解していることだと思う。だけど、アリーシャが自分の身を取引材料にされていることでは何も変わらないし、そのゲームの力学にリヒャルト様が現状では屈していることも事実だった。それに、彼女は愛されたかった。誰よりも自分を、一番の存在として。そんなの、当たり前でしょ? 『そうだね。簡単に結論は出せないと思う。だって、自分のことだもん。でも今結論を出さなくてもいいの、一番のタイミングは、きっとこの後に待っている』 「信じて、いいのかな? それを」 『信じるしかないじゃん。だって、この先にしかあなたの未来はないんだから。一番の選択をすれば、それが一番の未来になるよ。だって、あなたは可愛い私のアリーシャだから。だから大丈夫!』  胸を張って宣言する私に、アリーシャはなんだか変な顔になる。なんか赤くなっているような上目遣いの目で、正直ちょっと色っぽい。 「前からちょっと思ってたんだけどさ。……若葉って、かっこいいよね」 『その上目遣い、照れるんだけど?……まあ、悪い気はしないけど、さ』  そう言ってから、私はアリーシャに手を差し伸べて、その目を塞いでやる。 『いいから、もう寝なさい。今日のところは、このお姉さんを信じてさ。途中で本当に我慢できないことがあったら、私が代わってあげるから。もちろん、切り抜けるために、だよ。我慢するためにじゃなくて』  アリーシャは黙ったまま頷く。それから心なしかおずおずと、口を開いた。 「若葉。あの。お願いがあるん、だけど」 『何かな?』 「手を、握っててほしいんだ。私が、寝ちゃうまででいいから」  私から目を逸らしながらアリーシャはそんなことを言う。  きっと心細いんだろう。アリーシャはもう20歳で、親に甘えるなんて考えられない年齢だった、特にこの時代では。それだけに甘えられる誰かって貴重で、そのことはよく分かる。  だけどアリーシャは私よりずっと大人っぽい見た目だし、その恥じらう様子は、なんというか。ちょっとどぎまぎしそうな気持ちを平静に保とうと私は努めて、返事を返す。 「子供かな? 仕方ないなあ、いいよ」  それから、アリーシャの側に身を横たえると、片手を握って、それからもう片方の手で頭を撫でてやる。やっとアリーシャは安心したようで、すぐに寝息を立て始める。私はその様子を、少しだけ複雑な思いで見つめていた。  と言っても、これは観念だけの話。私とアリーシャが一緒の空間に存在することはできない。私が存在する空間はいつも観念の中の、いわば想像上の空間で、現実世界に存在しているのはアリーシャだけ。それがいつものことだった。  だけど今日は逆。眠っているのは観念の中のアリーシャ。実際にはアリーシャの肉体は起きていて、それは今、私の意識と共にあった。
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