5章7話 真夜中の遭遇 *

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5章7話 真夜中の遭遇 *

【新帝国歴1131年5月15日 若葉】  それから、半刻ほど経っていたと思う。  私は公宮のバルコニーにいた。夜着(って言ったってセクシーなものをイメージしないで欲しい、シンプルな綿のワンピース型の寝巻だ)に厚手のショールを羽織っただけの格好で、今のアリーシャの身分には相応しくないかもしれないが、誰も見ていなければ関係はない。真夜中の風は冷たかったけど、私には気持ちが良かった。だって満月に近い月が天頂近くにあって、明るいぐらいだった。前世の私だったら、暗いと感じたかもしれない。だって元々の目は暗い色をしていたし、近視でもあったし。今はアリーシャの感覚、アリーシャの目で見ているから、暗さはそんなに苦にならない。むしろ夏などは日の光が強すぎると感じることもあるぐらいで、違いはこんなところにも現れるのは面白い。 「……アリーシャ、ごめんね」  私は呟く。  ただ、アリーシャが眠っている間に、ちょっと若葉の意識のままで、外をほっつき歩きに出たというだけだったが。ただこの場合、私が私として見聞きしたことを、アリーシャが自分のこととして捉えられない可能性がある。  アリーシャも最近ではしっかりしてきたし、受け答えも堂々としてきていた。そろそろ、ピンチになったからって私がしゃしゃり出ることもないし、エックハルトごときに相対したところで、わたわたしたり地団駄を踏んだりしてしまう心配なんか、もう必要ないのかもしれなかった。  その時だ、私に声を掛ける人がいたのは。 「……あなたでしたか」  私は顔を顰める。 「ちょうど、あなたのこと考えてたわ」 「光栄ですね」 「いい意味じゃないけどね?」  お察しというかなんというか、エックハルトだ。公宮でのお勤めの時のいつもの服装で、小さな燭台を手にしていたが、蝋燭の火は今は消えている。 「どんな意味でも光栄ですよ、あなたが私のことを考えていてくれるのなら」  そんな彼の言葉に、私はもう一度顔を顰める。 「そういうお戯れはやめていただけません? 私だって本当は、あんまり納得行ってないから。リヒャルト様にも、それからあなたにも」  ことさらに突っかかる言い方をする私だけど、エックハルトは薄く微笑む。この顔、それから言い回し。この男は気がついている、私が今、若葉の方だということに。最初の一言は探りを入れていた、だけど二言目は確信めいていて、三言目は完全に分かっている口調だった。 「じゃあ、あなたの苦情を伺いましょうか」 「言ったところで何にもならないでしょ?」 「その割には随分、言いたそうですが」 「…………」  私は軽く歯軋りする。  リヒャルト様にだって、当然エックハルトにだって、この状況を容易に動かせるわけじゃなかった、それは分かり切ったことだった。  よくある異世界転生ものの物語では、王子様が婚約者たるご令嬢と婚約破棄する場面が出てくる。それは大体において、王子様にとってその婚約が意に染まなくて、別の愛する人を見つけたために、邪魔になった女を計略によって排除するという筋立てなわけだけど。それは所詮私達には他人事だから、その行いを褒めたりもしなければ責めたりもしないけど、ここでは少し事情が違っている。  元の私の世界の歴史でも、王権の世襲が当然とされていた時代においては、王位継承者はあくまで血筋に固執する必要があった。この世界は、元の世界とは宗教や哲学のあり方が少し違っていて、王権の根拠となっていた思想も少し違う。だけど王権にしかるべき裏付けを求めることでは元の世界の歴史とよく似通っていたと思う。こんな風な婚姻関係における政治的側面の強さは、それらの当事者であることを必ずしもロマンチックな方向には向かわせない。  それを理解することで、元々リヒャルト様とヴィルヘルミーナ様の間で結ばれていた婚約関係、それからその後の経緯についても、もう少し理解ができる。ランデフェルト公国の心許ない権勢と、その中でもしかるべき支配権の根拠を示すことに縛られている彼らにとって、いわゆる婚約破棄ものの王子様みたいな、あるいは歴史上の人物では、その権勢を拡大しながら何度も何度も女を取っ替え引っ替えしたイワン雷帝のような専横はまず不可能と言っていい。ヴィルヘルミーナ様との婚約は自分のためじゃなくて純粋に国益のためだった。そんな要求に唯々諾々と従っていたリヒャルト様は、冷たい人間だったというより、その義務に縛られていたと言っていい。  一方のヴィルヘルミーナ様にはそんな義務はなかった、だって彼女は君主ではないから、その親であるリンスブルック侯爵は君主だけど。結婚したくないヴィルヘルミーナ様は、目一杯我儘な娘として振る舞って、迷惑をかけるぞと親を脅して、リンスブルック侯爵の側から折れさせたらしい。  でも、この男どもは。そんな幼気な少女の心遣い、骨折りを好機として活かすこともできないぐらい、情けない男たちだったということだ。 「で、これがあなたたちのやり方なわけ」 「やり方とは?」 「あんまり口にしたくないんだけど? 『公妾』とかさあ」 「そんな風に聞こえますか? 卑しい響きだと」  そう答えたエックハルトの語尾には、どこかしら刺がある。少し私は鼻白む。  そういえばこの男は女に戯れの軽口を叩いてさえいれば満足っていうような甘ったるい男じゃなかった、本質的には。それに血統において、エックハルトは考え方によってはアリーシャよりも貴い、だけど別の考え方をするとアリーシャよりもずっと卑しいのだ。特に、嫡子かどうか、正当な婚姻関係に基づいた生まれかどうか、その問題においては。 「卑しいとか卑しくないとかじゃなくて、あのさ。あなたたちの血統ゲームに、アリーシャを巻き込まないで欲しいんだけど。巻き込まれた結果の今があるんでしょ、自分だってさ」  この『公妾』の要請をエックハルト自身が行ったわけではない。だけど、アリーシャのような身分の者をその地位に付けること自体、結構な綱渡りが必要だと思う。それなのに準備万端整っていたこと、それを考えれば、その準備の過程ではこの男が噛んでいる、確実に。 「私はただの男ですよ。身分もなければ、後ろ盾もない。現状を変えるような力はない。あなたが、あなたたちがと申し上げた方がいいですか? とにかく、あなたが侮られないような身分を彼らに保証させるために駆けずり回るのがせいぜいって所です」 「……ごめん。言い過ぎた」  私は謝る。だが、エックハルトは言いやめなかった。 「私だって、やりたくてやっているわけじゃない。与えられた義務を果たさなければ私は無だ。私がやりたいようにやったら、どうなると思いますか? 想像したくないでしょう、あなただって」 「…………。ごめん、ってば」  エックハルトの口調には、どこか絶望的な響きがあった。私は拳を握り締め、低い声でもう一度謝る。 「……申し訳ありません。こんな話をするつもりじゃなかった。……あなたもそろそろ、お帰りになった方が宜しいかと」  そう言って軽く一礼すると、エックハルトは踵を返し、一言告げる。 「お休みなさい」  そして、間。 「…………」 「…………」 「……ど、どうしたの!」  深夜にも関わらず、私は思わず声を上げてしまう。だってエックハルトは、踵を返しただけで、そのまま歩みを進めようとはしなかったのだ。 「……すみません」 「いや、別に謝る必要は……というか」  私は、エックハルトに歩み寄る。  結婚問題で奔走する、公爵家の権威の維持、それとリヒャルト様の幸せを両立するために。エックハルトの境遇を考えれば、不満がないわけはなかった。  それに、もう一つ私は、気がついている。アリーシャがエックハルトに反感を持っているのと同時に、エックハルトだってアリーシャに反感がないわけではないだろう、そのことだ。  アリーシャの反感はといえば、元を辿れば件の手鏡の一件に端を発する。だからエックハルトが悪いのは確かだが、エックハルトのアリーシャへの態度に心からの反省はない。そのことから考えても、それから水パイプの件でも、この男はどうしようもない野郎ではある。  だけど、そうしたエックハルトのスカした慇懃無礼さの裏に、どこかしら生硬さが感じられるのだ。それは、彼がいろいろな物事を、内心で割り切れておらず、それを飲み込んで生きていることに他ならないのだろう。  本来は高貴な上にも高貴な身分、君主であったとしてもおかしくないのかもしれない。私は高貴な身分に格別の感銘を抱いているわけではないが、この世界のこの時代の人として生きていて、その他の価値観を知らないエックハルトにとっては全く違っていても不思議ではない。  だから私は、彼の方に正面を向いて、こう切り出す。 「私の方がごめんなさい。本当に。あなたの気持ちは考えていなかった」 「…………」  そこからのエックハルトの様子は、本当に奇妙だった。  返事もせず、黙ったまま両手で顔を覆う。それから、ふらふらと歩み出し、バルコニーのベンチに向かうと、そこに腰を下ろすと、また両手で顔を覆うのだ。 「ね、ねえ。どうしたの、ってば」 「…………。どうして、こんなことを言ってしまうんだろう。そう思って」  その返事は、まるで。タチの悪いいたずらで叱られた子供が、心から反省しているようで、なんというか。度し難くタチ悪い部分はあっても、あくまで表向きは瀟洒で大人なエックハルトという人物像にはとても似つかわしくなかったのだ。 「あのさ、疲れてるんじゃないの? 全然寝られてないでしょ」  私は思い返す。リヒャルト様がああやって連日連夜の徹夜でへろへろになっているのだから、この男には当然それ以上のタスクが積み上がっているはずだ。と言っても、いかにも目に見えてそう、という雰囲気ではなかったのだが。 「私は……。そもそも、寝られることが少ないので。普段から」  こともなげにそう答えるエックハルト。 「そんなんダメだって! いくらショートスリーパーでも疲労が蓄積しないわけがないんだから、眠れなくてもちゃんと休んでよ」  この世界のこの時代にはあまりそぐわない概念をついつい口にしてしまう私。  エックハルトは顔を上げる。その表情に、私はなぜか、どうしようもない不器用さを私は感じ取る。この感覚はなんとも説明しづらいのだが、もしかしたら、性質は違うとは言え私は私でどうしようもない不器用だし、同病相憐れむ、みたいな感覚だったのかもしれない。 「ねえ、あのさ。提案があるんだけど」 「提案とは?」 「作戦会議しない?」
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