7章4話 開店式と、石ころと、階段 *

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7章4話 開店式と、石ころと、階段 *

【新帝国歴1135年10月1日 ヨハン】  アリーシャの言った通りの店の設えを整えて、開店できる運びになったのは、それから3か月後のことだ。  俺たちの住居の元からの構造だが、正面玄関の入り口は地面より少し高くなっていて、結構な広さの半円形のテラスが設けられている。道路側からは階段でそのテラスに上がることができる形だ。  また建物の側面にはもう少し小さな扉があり、そちらからも1階の室内に入ることができる。2階と3階は外の階段を上がって入る形だ。  つまりこの住居は、1階に『ショーウィンドウ』を設置するにはもってこいの形をしていた。アリーシャはそれが頭にあって、あの提案をしたのだろう。  一番の焦点は正面玄関の扉の内側に嵌め込むためのガラス窓の生産だった。この作業にはやはり俺が扱き使われ、ギリギリだったものの開店には間に合わせることができた。  そして、開店の日の話だ。その日はちょっとしたお祭り騒ぎになった。  ショーウィンドウの前のテラスは、小さな舞台のように飾り付けられていた。色とりどりのリボンと幕、そして、主演女優の存在。当然、ヴィルヘルミーナのことだ。  俺は、いつぞやのお祭りの飾り付けのことを思い出したりもする。3年前に公宮を訪れたヴィルヘルミーナが持っていたリボンはそれこそ高級なドレスの仕立てに使われるようなもので、それと比べると今回の飾り付けは庶民的と言えたのだが。  そして、俺もなぜかその舞台上に上げられていた。アリーシャが今日は来ることができないので、代理を任されてしまったのだ。俺みたいな貧乏くさい男にお嬢様のエスコートが務まるとも思えないのだが、まあ公妃様の命令だから仕方ない。  そんな感じで準備された開店式の会場の周囲には、町の人々が詰めかけている。どうやらこの辺りに住んでいる人々が大多数のようで、そんなに貧しそうな人はいない。中には良い仕立ての服を着ているものもいるようだった。  宮廷から借りてきた見栄えのいい二人の男性が、今にもショーウィンドウの扉を開こうとしている。空は生憎の曇りで、じっとりした灰白色の雲が、手が届きそうなほどに近く感じる。 (……何もなければいいが)  なぜか俺は、そんな風に考えていた。  だって、俺は前にもこんな空を見ていた、期待と不安、何かが起こりそうな予感の中で。あれは、そう。あの時のことだ。  ショーウィンドウの扉が開く。  中には、赤と黄色の、豪奢なドレス。  それを覗き込もうとする、人、人、人。  視界に飛び込む、小さな黒い影。  そして、不意の鋭い高音。  それは、俺の労作である巨大なガラス窓に直撃して、それに亀裂を入れさせる。  亀裂は瞬く間に、ガラス窓の全体へと広がる。  俺が間髪入れず動けたのが奇跡といったところだった。と言っても日頃碌に鍛えているわけでもないので、すぐ隣に立っているヴィルヘルミーナを庇って、ガラス片の直撃を受けないようにするのが、精一杯のところだった。  降り注ぐ、バラバラになったガラス片。  それが頭に、背中に当たる感触、群衆の騒ぎ、そしてようやく我に帰ったヴィルヘルミーナの悲鳴。  それら全てを俺はまるで、他人事のように感じていた。  投石の犯人はすぐに捕らえられた。  近隣に住む不届き者で、格段の意図はなく、ただ騒ぎを起こそうというだけの犯人だった。  だがガラス板は高い。そんじょそこらの庶民に購えるような金額ではなく、賠償できなければ懲役刑だ。いたずらの代償が懲役とは少し可哀想な気もするが、悪意とは然るべき代償を払わされない限りは、膨らむ一方の代物だ。  公宮の兵士の助けもあり、その後は大きな混乱もなく、野次馬は早々に整理された。開店は急遽取りやめになったが、それも致し方ないことだろう。  降ってきたガラス片は、幸い俺に怪我を負わせることはなかった、が、細かいガラス片が髪の毛に絡まっているようで、ヴィルヘルミーナは俺の背後に立ち指で取り除こうとしている、が、それで彼女の指が切れたりしたら、それもまた問題だ。 「そんなんいいから、展示品のドレスの方を見てこい」  俺はヴィルヘルミーナに声をかける。 「そんなわけには参りませんわ。だって」  だって、の後を彼女は言わない。俺は彼女のことは置いといて、床から拾ったガラス片を見分することにした。  ガラスが割れるのは、硬くて脆いというその素材の性質によるものだ。割れないガラスを作ることができていたなら、こんな目には遭わずに済んだはずだ。だが、割れないガラスなど作ることができるのか。そんな方法が果たして存在しているのか。  答えは見えてこない。  そんなこんなで、片付けが終わったころにはとっぷり日も暮れてしまっていた。料理番の婆さんが俺たちの夕食を用意していてくれるはずだが、こんなことがあった後では食欲も失せている。俺は、今夜は自分の部屋で休む、とだけ、ヴィルヘルミーナに声をかけると、階段を上がっていく。割れないガラスについての考え事を続けながら。  それは明らかに間違いだ。だって俺は義足なのだから。階段を上がるにも、集中力を切らしていてはならない。  義足の先端が階段を捉え損ねる。  後ろに転ぶのだけは避けなければならない。  俺は前へと倒れ、ずるずると数段を滑り落ちる。  その際に顔を階段の角で擦り剥いて、新たな痛みが加わるが、こんなに散々な日を過ごした後では、あまり強い痛みとも感じなかった。 「ヨハン!」  叫び声がする。物音を聞きつけたヴィルヘルミーナだ。  駆け寄ってくるだろう彼女に、冷静に口を開こうと思ったものの、意図せず俺の語尾は鋭いものになった。 「手を貸すな!」  数秒、俺たちの間に沈黙が流れた。 「……もう、やめましょう」  掠れた声で口を開いたのはヴィルヘルミーナだった。 「やめるって、何をだ?」 「もう、いいですわ。わたくしのわがままに皆様を付き合わせて、申し訳ございませんでした。1階をあなたのお部屋にしましょう。……お店は、片付けて」  すっかり悄気た様子で、そんなことを口にするヴィルヘルミーナ。それが俺には、いかにも気に食わない。 「それこそ余計なお世話だよ。俺の足のことはあんたにゃ関係ない、全く。これは俺が決めたことだ、あんたが来る前からな。生活のことはお互い干渉しない、そういう約束だろうが」 「……でも!」  と言うヴィルヘルミーナに、俺は軽く息を吸い込んで、吐き出す。 「言っとくが、俺はこんなことでへこたれちゃいないし、諦める気だってない。俺の鼻っ柱おるには、あんな石ころじゃどうにもならん。そこは理解しといてくれ」
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