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11 イタリア語の新規客
腹が立っているのか、なんなのか、分からない。
橋本涼は、ベッドに寝転がり、天井を見つめる。
あいつは何も知らない。知らないから、そう言える。あのカップケーキのレシピを作ったのは、自分だと、初めて採用されたレシピなのだと。
言ったら、あいつはどんなカオをするのか。
『俺の言葉に耳貸す奴が、いると思うか』
『私は一応、貸しているつもりですが』
「……クッソ」
橋本涼は、ベッドから起き上がり、新しく買った──買い直した、洋菓子店についての経営の本と、食品衛生責任者・調理師・製菓衛生師の免許についての本を、手に取った。
◇
今日はバイトの日である。午前10時から夜6時までの、8時間勤務の日である。
で、なんか、今日はご新規さんが多めだ。ぽつぽつと、だけど、それはこの店では多いに入るのだ。
思い当たる理由は、一応ある。マリアちゃんが連れてきてくれた、柳原ユキさんと、アズサさんだ。二人が広めてくれたのだろうか。
ラファエルさんもアデルさんも、なんだか新規が多いと、ホールに出る前に教えてくれた。ので、それほど困惑はしていない。
ただ、気になるのが。店に興味を示してくれているのは有り難いが、少し、私への視線も感じる。なんだか、興味深げな視線を。
なんか、懐かしいな。視線の感じは違うけど、バイトを始めた頃を思い出す。飲食店のバイトなんて、初めてで。日本語の他には、アメリカ英語しか話せなかったし。四苦八苦しながら、仕事を、仕事に必要なことを、覚えていった。店主のお二人も常連さんたちも優しくて、だからこそ、大丈夫だろうかと見守ってくれていた。
ドアが開き、顔を見せたのは、エマさんだった。
「(いらっしゃいませ、エマさん。今日はお一人ですか?)」
「(ああ、あとからレイが来るよ。たぶん、30分くらいで)」
レイさんは、エマさんのパートナーだ。
「(かしこまりました。席はどうしますか?)」
「(適当に座っとくさ)」
「(分かりました。お水、ご用意しますね)」
厨房に入り、報告し、水を用意し、持って行く。
「(おまたせしました。レイさんがいらっしゃったら、また、お持ちしますね)」
「(うん、それで頼むよ)」
「(では、御用の際は声をかけて下さい)」
「(あ、待った)」
移動しようとして、元の位置に立ち直す。
「(ピアス、両方送ったよ。喜んでた。光海、ありがとう)」
「(いえ、こちらこそ)」
「(うん。あと、レイを待ってる間に、コーヒーを)」
「(かしこまりました)」
厨房へ引っ込み、コーヒーを用意して、持って行く。店内へ出たところで、カラン、と音がした。見れば、知らない顔だった。
「いらっしゃいませ。少々お待ち下さい」
エマさんへコーヒーを出して、お客様のもとへ。
「おまたせしました。一名様ですか?」
その人は、少し困ったような顔をしてから、口を開いた。
「(君は、イタリア語を、話せるかな)」
「(少しなら。お客様の満足いくほどかは、分かりませんが)」
言えば、お客様は、少しホッとした顔になってくれた。良かった。
「(……充分だよ。ああ、客は僕一人だ)」
「(かしこまりました。では、カウンターとテーブル、どちらがよろしいでしょう?)」
「(カウンターにするよ。ああ、席は自分で決めて良いかな)」
「(もちろんです。では、お水をご用意しますね)」
引っ込み、伝え、水を持ってカウンターへ。おまたせしました、と水を置き、メニューについて聞く。考えると言われたので、下がる。
で、会計に呼ばれたので、そちらへ。
「ありがとうございました」
日本語のご新規さんだったので、ずっと日本語で話した。
「……ごちそうさまでした」
その人はペコリと頭を下げてから、店をあとにした。
うん、たぶん、良い人だ。そう思いつつ、今日は人が多いので、ちょっと手早く、テーブルを片付ける。
と、さっきのイタリア語の人に呼ばれた。
「(考えたんだけどね。オススメを聞いても良いかな)」
オススメ。
「(そうですね。では、こちらはいかがでしょう?)」
言って、示したのは、ピッカータ。まあ、ピカタだ。本場の家庭料理だから、日本のピカタとはちょっと違うけど。
「(こちらは店主の自慢の逸品でして、初めて来店された方やオススメを聞かれた時は、こちらをご案内しています)」
「(……うん。じゃあ、それを)」
「(かしこまりました。お飲み物はどうしますか?)」
メモを取り出し、メモりつつ、聞く。
「(いや、一旦いいよ)」
「(かしこまりました。少々お待ち下さいね)」
引っ込み、ラファエルさんへ伝える。アデルさんは、今日は悪阻が酷く、休んでいる。
ホールへ戻り、様子を観察しつつ、イタリア語の人の特徴を思い出す。
髪は短めの茶色だった。瞳も茶色、だけど明るい。顔の造作や体格から、イタリアかは分からないけど、西洋の雰囲気を強く感じる。背は高く、声は低く。服装は白のシャツと、濃いめのクリーム色のスラックス。それと、紺のジャケット。
……で、私のことを──日本語以外でも接客する店員のことを、誰から聞いたのかなんなのか分からないけど、知っているっぽい。
馴染みの誰かの、知り合いかな。まあ、深く突っ込むことでもない。
そんなふうに考えながら、仕事を続けていたら。それなりに長くカウンターに居たイタリア語の人が、会計を、と声をかけてきた。
「(美味しかったよ。ありがとう)」
「(いえ、こちらこそ。ありがとうございました)」
で、店から出ようとしたその人は。
「ごちそうさまでした」
振り返り、流暢な日本語で言った。
「いえ。ありがとうございました」
だから日本語で返した。
その人は苦笑いのような顔をして、店を出た。
◇
「橋本さん、このあと時間、ありますか?」
帰りのホームルームが終わり、立ち上がったところで、橋本涼は担任に声をかけられた。
「……はい」
周りがざわついている。それを気にしていないふうで、担任について行った。連れて行かれたのは、職員室。
指導室じゃないのか、と思いながら、担任の言葉を待つ。
「まあ、座って下さい」
と、担任の隣の席を示された。無言で座る。
「今日のテストの、橋本さんの解答用紙をですね、ざっとですが、見ました」
担任の担当教科は、数Ⅱだ。
「良い点数になりそうですよ。こういうことはあまり、先に言ってはいけないんですが」
前半も、後半も、橋本涼には寝耳に水のように思えた。
「ここのところずっと、授業態度も真面目にしてくれていますよね。努力しているように、自分には見えます」
「……どうも……」
視線が下がる。聞いた言葉だ。言われた言葉だ。
「分からない所があったら、気軽に聞いて下さい。他の教科の先生方も、橋本さんに協力してくれます。と、いうのを、伝えたかったんです。時間を取らせてしまいましたね。話は以上です」
「……はい。…………ありがとう、ございます」
橋本涼は俯いたまま立ち上がり、職員室をあとにした。
教室に戻れば、まだ、まばらに人が居た。光海も居た。他の人間はほぼ視線を逸らし、教室をあとにした。光海は橋本涼へ視線を向け、スマホを持った手を上げ、そのままスマホへ目を移す。
「……」
どういう意味の、行動だろうか。一瞬、考え、まあ良いかと、リュックを背負う。と、ポケットに入れていたスマホが震えた。
「……」
見れば、光海からで。
『不快に思われたら、すみません。ですが、少し、気になりまして。先生には何用で呼ばれました?』
橋本涼は椅子に座り、文字を打つ。
『テスト。良い点取れそうって』
『なら、良かったです。ちゃんと身についていると、プロである先生から言われたんですから、胸を張れますよ』
その後すぐ、光海は友人二人に呼ばれ、カバンを持って行ってしまった。
「……」
『分からない所があったら、気軽に聞いて下さい。他の教科の先生方も、橋本さんに協力してくれます』
担任の言葉を思い出す。……光海に言われたことが、現実になっていく。
つるんでたグループからは、抜けた。ラインも尽くブロックした。そういった場所にも行かなくなった。
「……」
進むことが、出来ているのだろうか。……祖父に、父に、伯母に、……母に。顔を合わせられるだろうか。
「……クソ」
ぐちゃぐちゃになった感情を吐き出すために出てきた、その言葉に、呆れてしまう。
呆れと苛立ちを抑えていたら、スマホが通知を受け取った。光海からだった。
『橋本さん。この前、来月のバイトのシフトも決まりましたから、次の時、明日に、打ち合わせをしましょう』
その文に、ホッとして。
「……あ?」
なんで今ホッとした? と、橋本涼は盛大に顔をしかめた。
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