砂嵐を知らない子供

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砂嵐を知らない子供

大きな病院で、精神科医として勤めて四十年。 勇退したあとは、無料で診療をする相談室を開いた。 対象は、育児に思い悩む母親、父親。 これから子供を生むのに不安がる人を含め、いろいろな相談を受けてきたが、このごろ、とくに気にかかるのが、あるノイローゼ気味の若い母親。 精神が不安定になったきっかけは、彼女が身重のときに発覚した夫の浮気。 証拠入りの手紙を、浮気相手が直接、家のポストにいれたことで知れたという。 しかも手紙には「子供を堕ろすか、子供をわたしにください。そのうえで離婚してください」と書かれていたと。 そりゃあ、彼女は激怒したし、手紙がこわかったのもあり、即、実家にもどった。 即、追ってきた夫は、彼女と親に土下座して、その場で浮気相手に連絡。 スピーカーフォンで「別れてくれ」と懇願。 浮気相手はごねたものの「いちばん大切なのは、妻と子供なんだ!」と毅然と跳ねつけ、電話を切ったので彼女と親は許したらしい。 そのあと、夫は献身的にサポートしてくれ、彼女は平穏無事に健康な女の子を出産。 で、めでたしめでたし。 とはいかず。 赤ん坊の世話に慣れてきて、生活が落ちついたころ夫がある事実を明かした。 「赤ん坊が生まれるまで、不安にさせたくなかったから云わなかったのだけど・・・。 じつは、彼女、自殺したんだ。 いや、もちろん、あれ以来、俺は関わっていないよ。 俺やきみへの恨みつらみを書きつづった遺書があったとか、そういう問題があったわけでもない。 まあ、俺は罪の意識を抱くべきでも、きみは気にしなくていいから。 ただ、彼女にはわるいけど、もう、きみと娘が脅かされることはないって伝えたくて」 夫からは誠意が伝わってきた。 それでも、彼女は浮かない思いでいた。 彼女にもまた、秘密があったからだ。 夫が別れの電話をしたあとも彼女の実家には、浮気相手から宛名のない手紙が送られつづけた。 はじめに送られてきたのと封筒の中身は同じで、浮気の証拠と「子供を堕ろせ、子供をわたせ、離婚しろ」との脅迫文。 夫の言動や態度からして浮気相手とは接触していなく、どうも妻の彼女にターゲットを絞り、いやがらせをしているらしかった。 せっかく改心した夫を、浮気相手のしつこい未練によって悩ませたくない。 親と相談した彼女は、手紙を無視、夫にも知らせず。 子供が生まれたとたん、ぱったり手紙がこなくなったのに「ついに諦めたのだろう」とほっとし、結局、なにごともなかったから夫に明かさないでおこうと決めた。 そうして、とくに問題がなかったのが、夫の告白によって不気味さを覚えたという。 浮気相手が自殺した日、それ以降も、手紙は届いていたから。 誰かに手紙を託して、届けさせていたのか。 それはそれで、おぞましいものだが、浮気相手はこの世からいなくなったと聞かされ、そのあとすこしして手紙は投かんされなくなった。 今は夫と娘と和気藹々と過ごせているのだから、多少の後味のわるさは目をつぶろうと、忘れようとしたのだが・・・。 「物心がついてきた娘が、自分でテレビをつけて見るようになったんです。 でも、ずっと眺めているのは砂嵐で・・・」 テレビの砂嵐は、羊水に浸っていた胎児のころを思いださせるとかで、見ていると落ちつく人、子供もいると聞く。 「だから、そう心配しなくても・・・」と宥めようとしたら「もう、六か月くらい、毎日、隙あらばですよ!」と彼女は絶叫。 すぐに我に返ったように「す、すみません」とうな垂れ、顔を手でおおいつつ「わたし、頭がおかしいと思われるかもしれませんが・・・」と声を震わせ、語った。 「夫から聞いた話、彼女は電波を扱う仕事をしていたというんです。 だから、その・・・。 私が子供を堕ろさず、わたさなかったから、こんどは娘を電波で洗脳しようとしているんじゃないかって」 電波で洗脳云々はともかく「たしかに、六か月もはおかしいな」と思い「よろしかったら、娘さんと話をさせてくれませんか」と提案。 発達障害などの別問題があることを懸念してのことだったが。 果たして、娘さんと二人きりで対面し「お母さんから聞いたよ。いつもテレビで砂嵐を見ているんだってね」とさりげなく聞いたところ。 「砂嵐ってなに?」 はっとさせられ、わたしは言葉を失くした。 呆けているうちに「テレビではかわいいお姫様を見ているよ」と娘さんは詳しく話してくれた。 「お姫様が歌うのといっしょに歌って踊るの。 そしたら、お母さんが顔を真っ赤にしてテレビを消しちゃう。 ごめんなさいって云うんだけど、手をぎゅうってされて」 娘さんが腕をさするのに「服をめくっていいかな?」と断ってから見てみると、肌には隙間なく、つねった跡があったもので。 診察後、決められた手順を踏み、彼女を娘さんから遠ざけた。 「いやあ、うっかりしていたよ。 わたしはブラウン管のテレビの視聴歴が長かったもんだから。 デジタルになってから砂嵐はなくなったというのに、あまり意識してなくて」 娘さんへの虐待が発覚してから一か月後、友人とランチをしながら苦笑交じりにそう語った。 が、彼はつられて笑うことなく「ああ、でも」とやや眉をしかめて曰く。 「今でも、砂嵐は見られるよ。 デジタルに完全移行するまえのテレビ、そのリモコンには、まだ『アナログ放送』を選択できるボタンがあるんだ。 もちろん、押しても、まともに映らないが、そう、砂嵐は見放題で」 フォークに差した肉の塊を落とし、わたしはぞっとした。 「浮気相手が電波で娘を洗脳しようとしている」 彼女の妄言が思いだされ、いやな予感がしてたまらず、夫に電話。 留守番の音声に切りかわりもせず、コール音が聞こえるばかり。 電話では埒がないと、家に訪問するも、すでにもぬけの殻。 精神病棟で発狂する母親を置きざりに父親と娘はどこかへ。 探偵を雇ってまで探したものを、今も消息不明のままだ。
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