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脱衣所で風呂上がりの男に、とりあえずの衣服を渡した。俺のTシャツを見ず知らずの人が着ているのは、すごく変な感じだ。身長は同じくらいだからそこは都合がよかった。
「で、君……名前なんだっけ? 聞いたっけ?」
「整史です」
「せいじ」
「整頓の整に、歴史の史です」
「かっこいいじゃん」
堅そう、頭が良さそうとは言われても、格好良いなんて言われたことがなかった。悪い気はしないが、なんと返していいのかわからなかった。
彼の右肘の内側が、虫刺されで赤くなっている。
普段は室内ばかりにいるのか、手の甲から上はまったく日に焼けていない。
「体調、大丈夫ですか?」
「ああ、うん。疲れてるけど問題ないよ」
服を身に着けた彼は、髪をタオルで拭いながら少し微笑んで俺を見る。
「なんでもいいんだけど……なにか、食べるものあるかな」
「スイカなら、すぐ」
「スイカ大好き」
笑顔でそう言った男に俺はびっくりして、そんな反応をした自分にも戸惑って風呂場を離れる。そわそわしながら台所へ向かった。あの人はずいぶんと人懐こいみたいだ。
冷蔵庫から出したのはスイカと、残っていたかぼちゃの煮物。今朝のそうめんも余っていたので持っていった。
冷房のある座敷の中央に、折りたたみの座卓を用意する。
雪平さんは死ぬほどうまいと言いながら全部を食べて、最後に追加で用意したあんぱんも食べてしまった。
俺は麦茶を飲みながら、その様子を眺めた。
「いつから食ってなかったんですか?」
「山に入ったのがおとといの朝で」
「おととい?」
「昼飯しか持ってきてなかったし、そこから丸二日かな」
「そ……遭難して二晩過ごしたってことですか?」
「ほんとよく元の道に戻ってこれたよ。夏じゃなかったら危なかった。こんなに近場の山で簡単に遭難するんだな。水だけは、湧き水みたいなの飲んじゃったよ。腹下すかと思ったけどセーフだった」
「ああ、ここより上なら、いくつか湧き水出てる所あります」
「そうなんだ、良かった。俺は運良くそういうのを飲めたのかな」
そう言って彼は笑った。助かったからこその笑い話だが、本当に紙一重だったのだろう。
二日も食べてなければ、倒れ込むように寝てしまったのも無理はない。歩いているだけでも、舗装路の倍は体力をもっていかれるだろう。
近年のアウトドアブームに乗じて間口が広がり、一人で山に登る人が増えたというニュースを見た。スマホがあるからと、初めてのルートでも紙の地図を一切用意しない人も多いと聞く。アプリはGPS機能もあるし便利だろうが、充電が尽きたらお終いというリスクもある。
山には看板や案内が設置されているが、常時誰かが責任をもって管理しているわけでもない。天候や老朽化で用をなさなくなっていることも。
俺は山に詳しいわけではない。近くに暮らしていたから事例や傾向がわかるというだけだ。それでも友達や知り合いと話していると意識の差に驚くことがある。
「なんで一人で山に? 登山が趣味って感じには見えないです」
雪平さんは麦茶を飲んだあと頷いた。
「……大自然のなかで一人になりたかったんだ。それなら山がいいかなって。このあたりってアクセスがいまいちだから混んでないし。ちょうどよさそうだったから」
そう言いながら、雪平さんは仰向けに寝転んでしまった。
「無事でよかったです」
「うん……」
「この奥の山って、五年前くらいに山菜泥棒が沢に落ちて死んだんですよ。傾斜に生えてる山菜を取ろうとしてたらしいです」
なんの相槌もないことに気付いて雪平さんを見ると、目を閉じており微動だにしない。俺も思わず固まる。
「あの」
少し近寄って確認すると、呼吸音は聴こえたので胸を撫で下ろした。
横になった途端寝てしまうなんて、やっぱり相当な疲労があるんだろう。入浴だって気力を振り絞っていたのかもしれない。
俺は座卓の上を片付け盆にまとめると、卓ごと部屋の隅によせた。部屋の奥に布団を敷き直す。
「布団敷いたのでこっちで寝てもらえませんか。畳だと固いでしょうし」
数度呼びかけるが、返答はない。
俺は仕方なく、薄いタオルケットを彼の胴体にふんわりかけてから、頭の下に枕を差し入れようとした。
この姿勢でいたら朝には首を寝違えそうだ。
それにしても、近くで見れば見るほど整った造形だと気づく。頬骨が少し出ていて、そこから頬、顎のあたりまでが平坦でなめらか。
二日も飲まず食わずで山を彷徨っていたというなら、もう少し日に焼けて肌が汚くなっていてもいい気がしたが。
まつげは長く、眉毛の形も凛々しく整っていた。
(なにジロジロ見てるんだ。俺)
気を取り直し、目の前の作業に意識を戻す。
頭そのものが意外と重くて、思うように持ち上がらない。試行錯誤していると、そのうち低い唸り声が聴こえる。
「ぅ……、う……」
「すみません、ちょっとだけ頭を浮かせてもらえませんか」
「嫌……」
「嫌って……」
「……ごめん」
寝たふりなのか? 俺は戸惑いながらも、なんとか調整して枕を設置する。ひと仕事終えた気持ちで息を吐き出し、座卓上の盆を持って立ち上がった時――――
「……ごめんなさい」
そう聴こえ、雪平さんを振り返った。
動きはなく目も閉じたまま。少し待ってみたが音沙汰はない。俺は首を傾げて、盆を台所に運んだ。食器を洗い終えると、またコップと新たな麦茶ポットを用意する。
夜中起きた時いつでも飲めるようにと、彼の枕元に持っていく。
横でしばらく観察していたが、もう寝言も呼吸の乱れもなかった。
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