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その晩、同じ部屋の隅に布団を敷いて眠った。
落ち着かない気持ちはあったけれど、相当疲れているみたいだし、いつのまにか死なれていたら困る。
これはかなり特殊な体験だろう。人命救助だ。俺がバイトとしてここにいなければ、この家は留守で閉め切っていただろうし、他の家に辿り着く前に彼は倒れてしまっていた可能性もある。
そう思うと、俺は少し誇らしげな気分だった。人助けも悪くない。
翌朝、俺はいつも通り六時半に起き、庭と畑の水やりを済ませて室内に戻ってくる。
充電コードに挿しっぱなしのスマホを思い出して、静かに和室へ入ると、ちょうど身を起こしたばかりの男と目が合った。
「おはようございます」
「ああ……、おはようございます」
そうつぶやきながら彼は、目元をこすって俯いている。動きはとても鈍い。
「あの、駅までのバス……。午前は八時の一本だけなんで、それでいいですか? 間に合うように送っていきます。徒歩ですが」
「バス……? ああ、うん」
「バス乗って三十分くらいで最寄り駅です。そこから都心までなら、乗り換え含めて三時間あれば大丈夫ですし、夜までには余裕で」
「ねえ」
俺が喋っているのを遮って、彼は言う。
「もう少し泊ってもいい? 明後日くらいまで」
「え……」
「俺、仕事辞めたばっかりで時間あるんだ。のんびりしたいんだよ。あ、客扱いはしなくていい。寝るとこさえあれば良くて、なんならきみの仕事手伝うから」
俺はスマホ片手に逡巡する。
「けど遭難しかけたんですよね? 帰ってゆっくりしたほうがいいと思います」
「どうせ一人暮らしだし。ここにいたほうが気分転換になるよ。話し相手もいるし」
「……それって俺ですか?」
「うん」
「俺はバイトでここにいるんで」
「でもしばらくは留守番なんだろ?」
「そうです」
「邪魔はしないよ。ああ、よければ責任者に俺が直接事情を話すよ。お礼も言いたい。それならいいだろ? 宿泊費用の話もそこでするから」
***
菊代子さんと通話が繋がったスマホを渡すと、男はあっというまに話をつけてしまった。
電話口で喋る彼はセールスマンみたいに滑舌良く流暢で、この家や環境を褒めちぎり、俺も褒めちぎり、なんなら俺を雇ったカツさんを。その元で協力している菊代子さんまで褒めはじめた。
嘘ではないのだろうが、誇張がすごい。
俺は驚きながら、呆然と彼を見ていた。学生じゃないのだと、そのときはっきり違いを感じた。
通話が終ると、彼は笑顔でスマホを返してくる。
「掃除や手伝いしてくれるなら、ただでいいって言われたよ。でも悪いからお金は少し置いてくことにする。色々大変みたいだしな」
「そ……ですか」
手招きされ何かと思い近寄ったら、ぐいと肩を抱かれた。近さに驚いて隣の顔を見ようとすると、眼の前にはスマホ。
「この写真、菊代子さんたちに送るよ。はい笑って」
言われるままにぎこちない笑顔を作る。彼は手元で写真を確認しているようだ。
「整史、ちょっとスマホ貸して」
「な……」
俺が横で唖然としていると、彼は顔をあげた。
「スマホ貸して? 写真送りたいから」
俺は画面ロックを解除してスマホを彼に渡す。念のため主張した。
「名前呼びキツイです」
「やだ?」
「はい」
「名字は?」
「田中」
「田中かぁ。俺、田中って友達四人いるんだ。あだ名つけてもいい?」
「なんでもいいですけど」
スマホが俺の手に戻ってくる。
「はい、俺の登録しといた。さっきの写真送る。そうだ、俺の写真撮ってそっちからも菊代子さんに送ってよ。それで安心だろ」
彼が満面の笑みでピースしてる写真を撮って、菊代子さんに送った。自分は一体何をしているんだろうと思いながら。彼はスマホ画面を眺めながらつぶやく。
「うーん。こうして見るときみ、凛々しい顔だよな、顎? カッコイイよ」
俺も彼のことを褒めたほうがいいのかな、とそんな気持ちになったが、友達にだって身内にだってあまり言ったことがない。
でも嬉しいのは確かだったので、礼だけでも言おうかと口を開いた時、彼はすくっと立ち上がり庭に出ていってしまった。
衰弱しきった姿を見ていたせいか、回復してからの彼の活発さに驚く。
俺の服を貸して着替えてもらったあと、建物や周辺を簡単に案内した。
簡単な朝食を済ませる。彼は器用でなんでも手伝ってくれた。もうほとんど身体も元の調子だというので、昨日途中になってしまった草刈りに協力してもらった。
食後に昼寝して、午後はレポートに取り組むことに決める。
俺はなぜだか心が浮き立っていた。
雪平さんは昨日会ったばかりの年上の人なのに、一緒にいても変な気まずさがない。ここでのバイトはもう四年目で慣れていたけど、菊代子さんがいない時は話し相手もいないから、時間を持て余すこともあった。そのせいか人がいるのが少しだけ楽しい。
一人でのんびりしたいという気持ちは強かったはずなのに。不思議だった。
座卓でノートパソコンと向き合っていると、独り言がすぎたのか、途中で雪平さんが近寄ってくる。
「それ、どういう内容?」
「大学のやつです」
「そっか」
雪平さんはそれ以上尋ねてこなかった。
本当は何を勉強してるかまで話したかったが、自分から喋りだすのも変な感じがして黙っていた。
雪平さんはスマホをいじるわけでもなく、ただ畳の上をゴロゴロしていた。
夕飯はどうするのか尋ねられ、雪平さんに任せると言ったら賞味期限が近くなっていた麺で冷やし中華を作ってくれた。
もっと勝手な人かと思ったけど、だいぶ親切だ。
入浴後、寝転びながらテレビの旅番組を眺めていた雪平さん。そのまま眠ってしまった。俺が数度呼びかけても起きず、昨日と同じ展開になる。
(なんなんだ……)
キリッとした大人の男性かと思えば、そうでもない。気遣ってくれるけど、こんなふうに無防備でだらしない面もある。
「雪平さん、布団さっき自分で敷いたんだからそこで寝てください」
「……なぁ」
「起きてるなら、ほら」
「きみのあだ名を決めてなかった。なにがいい?」
「なんでもいいです」
「整う、に歴史の史か……。せいじ、から取るのはありきたりだな。トトノウくん」
「意味わかんないし長いです」
「あだ名なんて意味分かんないもんだ」
「どうせこの場限りなんだし、なんでも」
「この場限り? あっちに戻ったらメシ行こう」
雪平さんは淡々と、まるで当たり前のことみたいに言う。
「……雪平さんってわりと強引ですね」
「好きな相手にはそうだよ」
微笑んだ雪平さん。
やっぱり、あまり見たことないくらいに整った顔の人だ。数秒見惚れてしまった。雪平さんのほうからは、この古民家には似合わない都会的な香りがした。
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