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4
(なんなんだ……)
雪平さんを力づくで布団に入れたあと、俺は数度深呼吸をした。ノートパソコンを閉じ風呂に入ることにする。
(なんだこの気持ち)
廊下の突き当り。脱衣所に入った瞬間いつもと違う香りを感じる。
目を閉じて記憶を辿ると、さっき近づいた雪平さんから感じた香りだ。
爽やかで柑橘系のような、甘酸っぱいような……。独特の香りだ。
果物で言ったら桃やプラムの香りに近い。それをもう少し化粧品っぽくした印象だった。
香水ってほどじゃない。かといって芳香剤とも違う。
俺は気が済むまであたりを嗅いだ。
雪平さんの荷物は、日常使いできるサイズのリュックだけ。
その中に入浴剤でも入ってたんだろうか? 日帰り予定の山登りで……?
シャンプーってのも変だし、日焼け止めや塗り薬だろうか。
いや、薬がこんなにいい香りのわけもない。
男だけどちゃんと肌をケアする人なのかな。それにしたって日帰り予定だ。
俺は首を傾げながら服を脱ぐ。湯気の溢れる浴室へ移動した。
宿泊施設にするための改築で、浴室トイレ、給湯設備だけは新しくしたそうだ。
お風呂場は石造りで、半露天のような格好いい見た目。
浴槽も三人同時に入れるくらい広い。
俺は体を洗った。一日の疲れも一緒に流れていくようで気持ちがいい。シャンプーを手のひらに取りながら、それとはまるで違う脱衣所の香りを思い出そうとした。
都会ではおしゃれな人とすれ違う時、まれに香水のかおりがする。その時に感じる胸騒ぎ。別世界に来た感覚になる。少し不安で、でも一歩踏み出して先を覗いてみたいような気持ち。俺が目にしたこともないようなキラキラしたものが、その先にあるような――――。
頭を洗い終わり泡を流し、ようやく湯船に足を入れようとして、はたと気づいた。
これは雪平さんが入った湯船だ。
昨日会ったばかりだから抵抗があるってわけじゃない。
雪平さんは昨晩シャワーを浴びているし、今日だって体を洗ってから入っただろう。彼はだらしない姿も見せてくるが、わりと几帳面なのだと所作から滲み出ていた。米は最後のひと粒までさらうし、物をきっちり置く。
(どうする……)
俺は湯船を見つめていた。
湯は綺麗で、まるで一番風呂みたいだ。もしかして雪平さんはシャワーだけ使って湯船には浸からなかったのかもしれない。
一体何について悩んでいるのかと急に我に返って、俺は目をつぶりその勢いで飛び込むように湯に浸かった。
風呂は少しぬるくなっていた。肩まで浸かって浴槽縁に後頭部を預ける。
風呂場の天井を見つめた。
雪平さんに、仕事のことをいろいろ訊いてみたい。
何で辞めることにしたのかとか、どうやって最初の会社を選んだのか。企業研究はどこまでやったのか、などなど。
俺には雪平さんぐらいの年齢の、親しい知り合いはいない。
働きはじめてからのギャップや本音を知りたい。雪平さんだって暇そうにしてるしちょうどいい。
OB訪問は人間関係もあるし約束を取り付けるだけでも面倒だから、少しでも参考にしたかった。
静かに息を吐き、目を閉じる。
自分の静かな呼吸に、湯の表面がわずかに揺れていた。窓の外では少し夏の虫の音が響いている。
雪平さんの顔が思い浮かぶ。
変な人だけど、人懐っこくて明るいから友達は多そうだ。
会社でだって、きっと人気者だったんじゃないのかな。学生時代はどんな感じだったんだろう。
風呂から上がり歯を磨いて、各所の電気を消しながら部屋に戻った。
こんな辺鄙な場所で誰が侵入するわけでもないが、一応の戸締りをする。
座敷に戻ると、雪平さんはおとなしく寝ていた。
それを横目に見て、空調のリモコンを拾い上げセットする。
操作音に雪平さんは反応した。唸って寝返りを打っていたが、やがてうつ伏せになり、よろけながら肘をついて身を起こして俺を見る。
「……田中くん」
「なんですか」
「お腹すいた」
「冷蔵庫のもの好きに食べていいですよ。あさってには菊代子さんも来るので……。食材いろいろ買ってくるって言ってました」
「わかった、うん」
雪平さんは布団の上であぐらをかき、口に手を当てながら大きなあくびをして俺を見る。明らかに眠そうな顔。俺の貸したTシャツを着ている。
「田中くん、こんなとこのバイトってどうやって見つけたの? 親の紹介?」
「役場横のスーパーに掲示板があって、その張り紙です。通えそうな地域にチラシ貼ってたみたいです」
「ふーん……。お客さんが来るのは週末だけって言ってたよな。金曜から?」
「はい。調理全般は菊代子さんです。俺は掃除とか、細々した他の手伝いをやってるんです」
「へえ、結構すごいバイト。やること多いな」
「ここ多くて二組しか泊まれないので、忙しいってことはないですよ。カツさん――雇い主の人が言うには、この宿はトータルでは赤字らしいです。でも思い出があるから続けたくて、別の事業から資金補填してるって言ってました」
「へー……カツさんがすごそうな人だな」
「今年はカツさんが入院しちゃってて」
「え?」
「腰を痛めたんです。急だったので俺はとりあえず家の手入れしてくれって、一人でここに。カツさんは他に家があるんですが、いつもならこの時期にもう一緒に準備してるんですよ」
「なるほどなぁ」
「今年は間に合わなそうだっていうんで。予約客には説明して、食事と宿泊のみにしてもらうことになりました」
「のみ?」
「本当はカツさんの『親切すぎるおばあさん役』を楽しみに、予約入れてもらってたんですが」
雪平さんは吹き出すように笑った。俺はなぜか、その顔をじっと見てしまった。年上の男の人にこんな感想も変だけど、彼ってモテるんじゃないかなと直感的に思った。
モテそうだ。同性の俺だって目が離せない。
「なにそれ、昔話的なやつ? おもしろいことやってんだ」
「めずらしいですよね、確かに」
登山用の服装もやけにカラフルで、なのに統一感もあっておしゃれだった。耳にかけた横髪は柔らかそうだし、眉尻がスッと横に流れていて、それが格好よかった。
別に化粧をしているわけでもない。だが少し手入れをしているような感じがある。清潔感がある。
「……なに?」
「え?」
雪平さんは自分の横髪を手のひらで撫でつけた。
「俺、髪すごいことになってる?」
「いえ」
「なんか見てるからさ」
指摘されるほど凝視していたと自覚して、俺は居た堪れなくなった。言い訳を探したが思い浮かばない。
「いえ別に」
「格好良い? 俺って、こう見えても結構モテるんだよな」
雪平さんは照れ笑いだった。彼が本気で思っているわけじゃなくて、こういう誤魔化し方なのだとすぐわかった。恥ずかしそうにしている。
それが伝染したみたいに俺まで恥ずかしくなってしまい、漏れそうになった言葉を飲み込んだ。
こんな人会ったことない。会ったら忘れるわけない。
なのに、なぜか前から知っていたような懐かしさすらある。頭がぼんやりする。
またあの香りがした。桃とプラムみたいな甘酸っぱい香り。鼻孔に柔らかく広がっていく。
(あれ……俺)
ハッと我に返り、隙間を埋めるようにとにかく口を開いた。
「あっ……。あの、俺のことあだ名で呼ぶんじゃなかったですか? 知り合いに田中がたくさんいるからって」
「え? ああ、そうだったな。ノエくん」
なぜそのあだ名になったのか、よくわからなかったが、悪くはないと思えたので疑問は飲み込む。俺の人生史上初めて、おしゃれなあだ名がついた。
雪平さんは台所から梅ゼリーを持ってきて、俺にもくれた。歯を磨いたんだけどな、と思いながら食べた。
俺と雪平さんの布団は離れている。畳一畳分くらいはあいている。なのになぜか、彼の寝息が気になって仕方ない。今日彼とどんな会話をしたか思い返していた。
明日は、もっとプライベートなことを尋ねてみよう。
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