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翌日の午前十時。
砂利を踏む車の走行音が聴こえ、俺は窓の外を見た。銀色の軽ワゴンが徐行しながら、曲がりくねった砂利道を下っている。菊代子さんだ。車は家の前に横付けされた。
「大変だったわねぇ、美味しいものたくさん買ってきたの」
菊代子さんから、食料がたくさん入ったダンボールを受け取る。計四つ。
表玄関と車のトランクを往復していると、雪平さんも出てきて手伝い始めた。
「こんにちは、お電話した雪平です。お世話になります」
「あなたもう体はいいの?」
「おかげさまで。整史くんに良くしてもらって充分休めました」
「彼、いい子でしょう?」
「ええ」
「スマホで写真送ってもらうまでは、登山者っていうから丈夫そうな人を想像してたの。でもこんなに細くって! 風が吹いたら飛んでいきそうじゃない。たくさん食べてもらわなきゃって思ったのよ」
「はは、結構食べてるんですけどね……。いえ、改めて本当にありがとうございました」
「いいのよお礼なんて! とにかくたくさん食べていってね!」
やけにテンションの高い菊代子さんは、靴を脱ぎ中へ上がって、俺たちが運んだダンボールを更に台所へ運ぶ。俺もそれに続こうとしたとき、背後で雪平さんが呟いた。
「声……でっかいな」
「ですよね。菊代子さんが作るご飯、すごく美味しいですよ」
「たーくんちょっと手伝って!」
流しの方からそう呼ばれ、俺はサンダルを脱いで中へ入る。
雪平さんもついてきたが菊代子さんに断られる。彼は所在なさそうにしていたが、やがて庭へと出ていった。
「カツさんの具合どうですか?」
俺は棚に乾物を移動させながら言う。
「残念だけどやっぱり無理ね。あーあ残念。ううん、カツちゃんが一番残念そうにしてた。腰はぶり返すからちゃんと治さなくちゃ。そう、たーくんにもよろしくって。ねえ、あの雪平さんてかたすごくいい人そうね」
「ええ、まぁ」
「実はね……。私、若い頃ロックバンドの追っかけしてたって言ったじゃない? 彼、そのベースの人にそっくりなのよぉ……!!」
目を輝かせ喜んでいる菊代子さん。俺はだいたいのことが腑に落ちた。
***
結果、菊代子さんと雪平さんは意気投合した。こんなことさすがに想像しなかった。
菊代子さんは還暦間近だと話していたから、雪平さんとは相当年齢が離れているはずだ。
それなのに雪平さんは、菊代子さんがファンだったというバンドを知っている。ベースの人に似ていると会社の上司に指摘されたことがあり、話の種にといくらか曲を聴いてみたのだという。
俺も名前だけは聞いたことのあるバンドだったけど、詳しく知らなかった。
「俺は『水面』って曲が一番良いなぁと思って」
「えーっ!! わかってるわぁ、あれ歌番組では歌わなかったけどベストアルバムにも入ってるし、ライブでは鉄板のバラードなのよ。あれが好きってことは、バンドの本質をわかってるってこと!」
「へえ、そうなんですか。菊代子さんはどの曲からファンになったんですか?」
「ふふ、ちょっと長い話になるんだけど」
食事中も半分はそんな話題で、俺はあまりおもしろくなかった。まったく蚊帳の外だ。
俺もバンドに興味を持って、菊代子さんの話を聴けばいいのだが……、どうしてもそんな気になれない。
確かものすごくおじさんのグループだったし、見た目もイマイチだった。
そんなに有名ならば、ファンじゃなくても一曲ぐらい知っててよさそうなのになんの印象にも残ってない。ということは、たぶん俺の好みじゃないだろう。
少し早めに食事を済ませ、俺は皿を持って立ち上がる。
「俺、今日のレポートノルマ終わってないんで」
「あらそう。お皿流しに置きっぱなしでいいわよ、私が洗うから」
「……うん」
「冷やしてあるゼリー食べてね。持って行っていいから」
俺は流しに皿を置くと振り返って冷蔵庫をあけ、果物のゼリーとその横に置かれたプラスプーンを手に取った。
部屋に引き払っても、隣室から二人の楽しそうな笑い声が聴こえて、レポートには集中できなかった。途中でトイレに行ったついでに居間の様子を覗いたが、二人はまだ座卓に食器そのままで、缶のアルコールを飲んでいるみたいだった。不愉快だった。
+++
「ちょっとたーくん! こっち来て!」
午前中、薄暗い土間の掃き掃除をしていたところ、溌剌とした声で呼ばれた。靴を履いたままのろのろと上がり口の段差に膝をつき、室内に身を乗り出す。
「なんですかー」
「見て!」
俺は目を疑った。
そこには淡い色の着物を来た女の人がいた。女の人じゃなかった、よく見ると雪平さんだった。
とても濃く化粧をしているようだ。彼がはにかんだので、その表情変化でようやく理解した。雪平さんは少し恥ずかしそうにしていた。俺を見て言う。
「じっと見てないでなんか言ってよ、感想とか」
「……な……。なんですか、それは……」
「ツルの恩返しよ! いけるわ! 雪女でもいいし」
横から菊代子さんが、拳を握りしめながら言う。
「雪女って……。今、真夏ですよ? え、もしかしてカツさんの代わりに雪平さんをってこと?」
「そう、少し演劇部にもいたんですって! ちょうどいいじゃない!」
雪平さんは苦笑いする。
「いやいや、部にいたのはほんと半年ぐらいで。通行人とか民衆Bとかでしたから」
彼は、恥ずかしいというより困っているようにも見えた。菊代子さんの勢いに押されてこうなってしまったのかもしれない。
菊代子さんには俺だって最初はたじたじだった。この人と一緒なんて、バイトやめようかな、なんて思ったほど押しが強い。付き合ううちに、策略や悪意なんてなく、ただエネルギーを持て余している人だということがわかった。
「雪平さんはこのシーズンずっといられるわけでもないし、急にそんなの迷惑ですよ」
「あら。最後まで手伝ってくれるって言ってたわよ」
「あー……、あはは」
横で雪平さんが気まずそうに笑った。菊代子さんは言う。
「転職活動は九月からにするんでしょ? どうせなら変わった短期バイトをやってみるっていうのもいいんじゃないかしら。何が向いてるかなんて、やってみないとわかんないものよ。バイトじゃなくてボランティアのほうが面接の心象いいかしら? 積極性のアピールになるし優しい人って印象付けもできるわよ」
畳み掛けるようにしゃべる菊代子さん。俺は言う。
「こんな付け焼き刃でうまくいくとは思えないです。演劇部も半年で辞めたっていうんだから、きっとすごく下手なんですよ。ウケませんって」
「たーくんは厳しいんだから! でもほら、彼って佇まいだけでも神秘的じゃない?」
「こういうのって中途半端にやっても、お客さん側もどう反応していいかわかんなくて戸惑いますよ。そもそもカツさんに会いに来てるリピーターばっかりなんだから」
「それもあるけど、最初はカツちゃんのことなんて誰も知らなかったのよ? この宿と、ちょっとした怪談企画に興味を持って来てくれた」
「そうですけど」
「宿泊と食事だけでもいいって皆さん言うけど。できることがあるならチャレンジしてみたいわ。雪平くんは協力的だけど、なんならたーくんがやってみてもいいのよ?」
「なっ……なんで俺が」
「高一から三年間見てたでしょ? 進行やセリフを考えたのもほとんどあなただし自分でもきっとできるわよ」
「俺は怖い話がちょっと好きなだけで、自分が主役になりたいとか思ってませんし向いてません」
「じゃあ雪平くんに任せるのね」
「今年はもう予約客に説明したんだから、それでいいじゃないですか。無理しなくても、納得してもらってるんだし。そもそも雪平さんって一昨日まで遭難してたんですよ。そういう人にいきなり任せるってヘンじゃないですか? ここに来たのだって偶然なのに」
「……たった半年でも、厳しい部活だからしっかりやったけどな。俺なりに」
急に雪平さんが口を開いた。俺の目をじっと見ている。雪平さんはずいぶん表情が固かった。真顔だった。
「俺、田中くんが思ってるほど下手ではないよ」
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