66人が本棚に入れています
本棚に追加
8
俺は風呂から戻ってくると、やや緊張して座敷に入った。
雪平さんは布団に入りうつ伏せになっており、静かだ。枕に顔面を押し付けたようなポーズで動かない。
寝支度を整えながら少し荷物整理をしたあと、立ち上がり部屋中央にある電気の紐を引っ張ろうとした。そのとき隣から、
「好きな子いるの?」
そう訊かれた。
雪平さんはいつのまにか仰向けになっており、微笑んで俺を見上げていた。
「ノエは好きな子いる?」
「いません」
「彼女いる?」
「いませんって」
「電気消さないで。ちょっと話そうよ」
俺は戸惑ったものの断る理由も見つからなくて、すごすごと自分の布団へ横になる。仰向けになってスマホをいじるふりをした。
「電気は雪平さんが消してくださいね。俺もう起き上がりたくないんで」
「ノエんちって、ここから遠い?」
「原付きで……、土間に置いてある原付き俺のです。それで四十分ぐらいです。車だと三十分」
「三十分? 結構遠いんだな」
「まあまあ」
「どんな家?」
「普通の家です」
「もうちょっと説明しろよなぁ!」
そう言いながら雪平さんは笑っていた。やっぱりテンションがおかしい。
「……酒、飲んだんですか?」
「ううん。明日もあるし、やめといた。今日と同じパフォーマンス出したいから」
明日も、昼過ぎに到着する客が一組いる。
「なあなあ、ノエ」
気づいた時には、雪平さんが俺の布団の真横にいて俺を覗き込むようにしている。
微笑んだ雪平さんと目が合う。嫌な予感がして身構えた瞬間。
彼は布団の中に手を突っ込んできた。腹をくすぐられている。俺は腰を引き、慌てて飛び起きて抵抗した。
「っ……!! やめてください!」
雪平さんは手を止め、笑顔で俺を眺めている。
「やっぱり、くすぐられるの弱いんだな。そんな気がした。さっき抱きついた時ビクビクしてたから」
「はぁ?!」
「好きな子いないの? 大学で」
「工学部なんっ、で、っ……」
雪平さんは、揉み合いのすえ俺の腰にまたがっていた。俺は雪平さんの手が動かないようにと、握って抑えている。なんだこの体勢。
「退いてください」
「工学部って……、ああ男ばっかりってこと? じゃあ出会いがないんです〜って言えばセッティングしやすそう」
「そういう感じでもないです。俺を突っついても何も出てきませんよ」
「ふーん……」
明らかに残念そうな顔をした雪平さん。そのまま前方、俺の胸に倒れ込んできた。驚きすぎて言葉も出なかった。
「なあ……。手、離して。少し痛くなってきた」
「……嫌です、くすぐるんでしょう」
「くすぐらない」
「信用できないんで」
唐突に、肘の内側に湿り気があり、何かと思えば噛みつかれていた。あまりのことに俺は、雪平さんを拘束の手を緩める。
雪平さんはまた俺の腹をくすぐろうとしたが、本気で睨みつけると、興味を失ったように俺の横へと寝転がった。
「雪平さん……。お酒飲んだでしょう」
「飲んでない」
「どっちでもいいですけど、人に迷惑かけないでください」
「俺、迷惑?」
「迷惑以外の何ものでもーーーー」
そう言いかけて俺は気づいた。迷惑だなんて感じてない。驚かされて悔しいし、ペースを乱されてる。恥ずかしい。
でも、雪平さんからの行為を嫌だなんて思っていない。迷惑だとも。
(俺…………)
雪平さんは微笑んで、じっと俺を見ていた。からかいではなく何か大切な、柔らかいものでも眺めるような視線だった。
「ゆ……雪平さん、前はどういう仕事してたんですか?」
「商品売ってたよ。ハンドクリームとか、シャンプー、石鹸とか。そういうケア用品の会社でさ」
雪平さんからする良い香りはそのせいか。日常的に気を配っているのかも。
「へえ。そういう会社なら、女の人ばっかりなんじゃないですか。モテたでしょ」
「もう大変だったよ。みんなが俺を取り合ってケンカになって」
「……恋人はいるんですか、じゃあ」
「ううん。俺が誰かのものになったら皆に悪いだろ」
「はぁ、そうですね」
この言い方からして、そんなにモテてなかった……のかも。社内恋愛は別れたときが大変だっていうし。
「でも、特別に君の恋人になってあげようか。工学部くん」
俺は思わず、顔を倒して隣を見た。雪平さんは俺をまっすぐ見ていた。
「命の恩人だし、将来有望そうだもんな」
「は…………」
「賢そうな顔」
雪平さんは俺の顎に触った。
指先で軽く。気まずくて俺は目を伏せた。
「恋人……、って。俺は男ですよ」
「俺、男のほうが好きだから」
「え……」
「前に付き合ったのも男だったよ」
「は……」
「意外だった? 俺も、普段はこんな短期間で人に言わないんだけど……、ノエには言っても平気な気がしたから」
雪平さんは微笑んでいた。
「な? やっぱり大丈夫だった」
顎に触れていた雪平さんの手は、肌を伝って、俺の頬に触れた。手のひらが俺の頬を覆う。こんなことされたの初めてだったが嫌じゃなかった。むしろもっと、何かーーーー。
「……やわらかい」
それを言う雪平さんに、俺も触ってみたかった。中途半端に額に落ちている前髪。目元。
いや触りたいなんて、変か……。
だって雪平さんは男なんだし。
着物で化粧をした顔なんか見たから、こんなふうに思うのかもしれない。もちろん、もとから整った顔の人だ思ってた。化粧してなくたって綺麗だ。
雪平さんは、男が好きだから俺に触ってるんだろうけど、俺は違う。
初恋は女子だった。短期間だったけど付き合った。
あれって恋だったのかな。
恋ってもっと、刺激的でドラマみたいなものだと思ってた。
自分がコントロールできなくなるくらいに強い感情。
そう、俺がいま雪平さんに感じているような。
最初のコメントを投稿しよう!