初恋、引き受けます!【改稿】

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1 「暑っつ……」  俺は空を仰いで思わず愚痴た。地面に鎌を置き、額の汗をぬぐう。数日雨が降り続いたため、朝から蒸し暑い。  ここは山の中腹部の村。舗装路から民家までの道のりは定期的な草刈りが必要だ。辺りには、伐採した草木の鬱蒼とした香りが立ち込めていた。  休憩を挟みながら一時間で最初の区画を綺麗にしたところだ。  これで畑と藪の境界線ははっきりとわかるようになったし、砂利道にはみ出している雑草も刈った。納屋の周りや、外置きの農具置き場も綺麗にした。  このあと母屋に入って麦茶をがぶ飲みし、風呂場で頭から水をかぶる。きっとめちゃくちゃ気持ちいい。それから冷蔵庫に残っているスイカを食べるんだ。  そう思い、立ち上がったところだった。  ふと左手にある茂みの奥に、何かが動いた気がした。俺は目を凝らした。昨年この庭でタヌキを見たから、同程度の大きさの生物を探す。  音沙汰はなく、風で木が揺れたのだろうと思い直す。  鎌を戻しに納屋へと歩きだした。すると、また音がして振り返る。  裏山に続く細い坂をじっと見つめていると、誰かが降りてくる気配があった。俺は首を傾げる。  この辺の民家はみな顔なじみだし、一日の動きも大体決まっている。この道を使うのはうちと、奥にある谷田さんの家だけ。  谷田さんは一昨年から毎夏は北海道旅行へ行くようになって、不在だ。植物の様子を見てほしいと、俺が家の鍵を預かっていた。  坂の先。  最初に見えたのは足だった。  カラフルな紐のスポーツシューズ。いつも泥の付いた長靴を履いている谷田さん本人ではないだろう。谷田さんちの遠方に住んでる息子とか……? それにしたって俺が鍵を預かってることは知っているだろうから、先に車で挨拶に来てくれるはず。  木々が茂っており、しばらく顔は見えなかった。  次に見えたのは黒っぽいズボン。想像より細い脚。  派手な黄色の上着。緑っぽいリュックのひも。  顔……。俺より少し年上ぐらいの大人の男だった。  笑顔はなく、顔は土か何かで汚れて茶色っぽくなっており、髪の毛もボサボサで歩き方がおかしい。  俺はしばらくその様子を眺め、浮浪者だとか幻覚か?など一通り思考を巡らせてからようやく、道に迷った人ではと思い至る。近づいて俺は言った。 「どうも、こんにちは」  二人の距離があと5Mくらいのところで、男が立ち止まった。  俺も驚いて立ち止まった。男はうつむき大きく溜息をつく。そして肩を震わせ泣き出した。俺は声を掛ける。 「あ、あの」 「道にっ…………、迷ったんだ」 「それっぽいですよね」 「死ぬかと思った」 「この辺ってドコミの電波しかないんですよ」 「はは、電波っていうか……充電とっくにない」  笑いながら泣いて、男はその場にしゃがみ込む。頭頂部しか見えない。 「あの、うちで休んでください。いま麦茶持ってきます」 「ありがとう」  俺は縁側で靴を投げ出し、急ぎ台所へ向かう。  コップに麦茶を入れ、これだけでは足りないだろうと、ポットごと持ってまた庭へ向かう。  彼は麦茶を三杯飲んだあと石みたいに動かなくなった。  静かに泣いている彼を励まして縁側から座敷に上がってもらい、畳に横たわらせた。水でも浴びてほしいくらいに汚れていたが仕方ない。思った以上に弱っている。  救急車を呼ぶか尋ねたが、とにかく今は横になって寝たいと言う。持っていたリュックを引き寄せ、アウトドア用の薄い財布を取り出し、俺に渡すと気絶するように眠ってしまった。    ***    ーーーー壮大な山々の麓というと聴こえはいいが、要は田舎の水源豊かな地域に俺は生まれ育った。   高一の時のバイト探しは難航し、遠方だったが宿泊施設での良い求人を見つけた。短期の夏休み期間だけ。  原付きバイクはあったし、泊まり込み可能とあったから申し込むことにした。  俺は親から離れて過ごしたいとも思っていたし、ちょうどいいバイト先だった。ちょっとした温泉施設みたいなのを想像していたが、実際は大きめ古民家だ。雇い主はカツさんと言うすごく元気な女性。  カツさんは市街地に別の家を持っている。ここは子供の頃に数年だけ預けられたことのある親戚の持ち家だったそう。解体案も出ていたが、カツさんが不動産事業の一環として買い取り、宿泊施設として運営することにしたらしい。  しかし、地方の山奥だ。  カツさんは集客に悩み、実験的に『昔話体験』というのを取り入れることにした。そのため一人手伝いを増やし、できれば若者の意見も取り入れたいということで、学生バイトを募集してそこに応募したのが俺である。実験は成功した。  俺は宣伝と裏方を担当。カツさんは親切すぎる不穏な老婆に変身し、和物ホラーを求める客を次々と虜にしていった。週末ごとの『昔話体験』予約はすぐいっぱいになった。  俺は高三までそのバイト先に世話になり、バイト先というよりは夏休みに行く親戚の家みたいな感覚になっていた。  その後関東へ進学したが、慣れない環境に疲弊していた俺は、帰省ついでにいつものバイト先にお世話になると決めていた。そうすればなんとなく落ち着きを取り戻せるような気がしたのだ。  そして今夏のバイトが始まる一週間前。七月のはじめ。  突然の連絡があった。カツさんが階段を踏み外して倒れ腰を痛めたという。急なことだったので古民家は準備途中で投げっぱなし。バイト代もそのまま出すから、予定通り古民家に行って家の維持をしてくれと連絡を受けた。  俺が到着した日には、入れ代わり立ち代わりカツさんの友達だという人が来ては食料を持ってきてくれたり、草刈りや掃除も手伝ってくれた。  来週のオープン時期に合わせて予約を入れてくれた人には説明をして、普通の食事付き一泊プランで済ませてもらえるよう変更した。  しばらくは、カツさんの連絡を待つしかない。調理担当の菊代子さんも、カツさんの様子を見に行って週末まで顔を出さない。  というわけで俺は、木造建築二階建て古民家に一人で留守番をしていたというわけだ。    行き倒れの男を保護したあと、俺は判断に迷って菊代子さんに電話した。すると、何年か前にも道に迷った人がそこから現れたことがあるのだという。  若い人でしょ? 歩けるんなら大丈夫よぉ、一晩ぐらい休ませてあげて。家にあるものなんでも使っていいからね。  菊代子さんの気の抜けた声を聴き、落ち着きを取り戻した俺は、電話を切って深呼吸をする。   俺は家の掃除をしながら、度々男の様子を覗きに行った。  ときには近くまで寄って、呼吸があるか確かめた。空調が効いているとはいえ、枕元の盆に置いた麦茶は飲まれた気配もない。菓子パンもそのまま。  心配になる。起こして飲ませたほうがいいだろうか。  やがて陽が落ちセミたちも静かになる。簡単に夕飯と風呂を済ませた俺はようやく気づいた。客間以外だとエアコンはこの座敷にしかない。  見ず知らずの人と同じ部屋で寝るのは抵抗あるが、俺が離れているあいだに死なれたら、責任問題になってしまうかも。  細かいことをぐっと飲み込んで、部屋の端に座布団を敷いて寝ることにした。横になってスマホのアラームを確認していた時、男がゆっくりと身を起こした。  俺は驚きつつも凝視して、尋ねる。 「あ……。あの、どうですか。体調」 「ああ、うん……。ありがとう、助かった」  その声はものすごく細い。テレビでも付いてたら聴こえないくらいだろう。 「朝から一度も起きなかったですし、水も、あんまり飲んでないようですけど」  男は枕元に置かれたミニポットに気づいて、そこからコップに麦茶をそそぐ。そして一気に飲み干した。コップをもとに戻し、息を吐く。 「おいしい」 「……風呂って入れますか?」 「ああ入りたい、もう身体がベタベタで……。きみはここの子? お父さんかお母さんは」 「ここは旅館で俺はバイトです。大学二年。ちなみにいま留守番中で、俺以外はいません。責任者に連絡はしました。あなたを泊めてもいいって」 「そっか……。俺は雪平。住んでるのは東京で、山登りに来たんだ。よろしく。こんな姿見せといて、いまさらよろしくも何もないけど」 「あっ、俺は千葉のM市に住んでます」 「そうなの?」 「いまは夏休みなんです。こっちが地元で、帰省ついでのバイトです」 「なるほど」 「風呂入るんなら、案内するので」 「うん、入るよ」  男は笑顔とまでは行かないが、終始柔らかい表情だった。  喋り方も声色も、ずいぶん優しくてなめらか。  初対面のはずなのにどこか既視感もある。懐かしいような気恥ずかしいような。だが心地いい雰囲気もあった。  こうして休ませたはいいものの、苦手なタイプの人だったらどうしようと思っていたから、ようやく緊張が解けた気がした。
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