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なめらかな風に乗って甘い香りがほのかに漂う。
「お主、名はなんという?」
「望月葵と言います。 神様もお名前を教えていただけますか」
「私は月読だ」
「ツクヨミって日本神話のあの月読様ですか?」
「お主の言う日本神話が何を指すか知らぬが、似て非なるものだろうな」
「似て非なる……。そうですか」
しばらく私たちは美しい夜景をぼんやりと眺めていた。
残業して疲れた体が浄化されていくよう。
月がまんまるに輝き淡い光に包まれている。
「何百年ぶりかに人間としゃべった」
ぽつりと月読様がつぶやく。
「少し話し相手になってはくれぬか」
「もちろんです」
断る理由もなく私は頷く。
「昔にもアオイと同じように私が見える人間がいてな、よく会いに来てくれていた」
「神様が見える人ってやっぱり少ないんですか?」
「そうだな。特に私は夜の神だから、昼間はあまり姿を現さぬのだよ」
「じゃあその方は夜に会いに来たということですか?」
「そうだ。今のお主のようにな」
月読様は小さく微笑む。
その微笑みはとても優しく、けれど儚くて、月夜に相まったあまりの美しさに息をするのを忘れそうになった。
「喜与もバチあたりだと言った」
「キヨ、さん……?」
「私が鳥居の上に座っていたら、アオイと同じように喜与もバチあたりだと言ったことを思い出してな。懐かしくなった」
そう言って月読様はくっと憂いを帯びた微笑み方をする。ふわりと揺れた小袖から甘く幻想的な香りがした。
「月読様はお香を焚いていらっしゃいますか? すごく良い香りがしますね」
「……お主はあやつと同じ事を申す。喜与はこの香りがとても好きだった。草花なども好んでいてよく摘んできては見せてくれたな。この社のまわりに植わっている草花は、ほとんどが彼女が種をまいたものだ。私は手入れが下手でだいぶ枯らしてしまったがな」
月読様はそう呟くと、視線を遠くに向けた。
また、月読様の甘い香りが鼻を掠める。
白檀だろうか、甘くてどこか懐かしささえも感じさせるような香りは私を遠いところへと誘うよう。
さっき月読様は人間と話すのは何百年かぶりだと言った。だからきっとそのキヨさんとの思い出は、遠い昔の大切な記憶なのだろう。
「キヨさんがいなくて寂しいですね」
「……さあ、どうかな。神は不死身ではないが人間とは時の流れが違う。泡沫の思い出だよ」
それでもそんな風に覚えているのは月読様の中に彼女の記憶がしっかりと刻み込まれているからにほかならない。懐かしさの中にほんの少し悲しみの感情が見えたような気がした。
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