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最終話
天空の水面に映った鏡のような風景が一面に広がる。
どれくらい時間が経ったんだろう。
身体は軽く、どこにも痛みはなかった。
淡いブルーと朝焼けのピンク色が入り混じった幻想的な空間。
ここが天国なんだと思った。
私……死んだのね。
苦しくない。とても穏やかで清々しい気分だ。
辺りは静かで何の音もしない。
「私、死んだのね」
声に出して言ってみた。発した声は優しく響く。
『神様は少しだけ偉い人間だ』と彼は言っていた。
後で会おうねって言っていた。
神様は何処にいるのかしら。
私はまっすぐ歩いていく。
一歩歩くと、足跡は水紋のように輪を描いて、綺麗に消えていく。
五十メートルほど先に人影が見えた。
きっと神様だ。
私を待っていてくれたんだ。
嬉しいような懐かしいような気持ちになり、私は走った。
「神様!」
私は大きな声で彼を呼んだ。
「神様!」
彼は私の方を振り返る。
ゆっくりと、そして笑った。
「小春」
私は勢いよく彼の胸に飛び込んだ。
「小春、そんなに走ったら転ぶぞ」
「大丈夫……神様…………」
彼は照れくさそうにクシャっとする笑顔で頷いた。
「拓也さん……」
私は驚かなかった。
「俺が、神様だったんだな」
拓也さんはそう言って私を抱きしめた。
彼と約束した。
私が五歳の頃、結婚しましょうって言ったんだ。
思い出した。
神社の松林の中で一緒に遊んだ。私がかくれんぼで木の幹に躓いて、転んで泣いた時『大丈夫、大丈夫だよ小春』って慰めてくれた。
ホラー映画が好きで、もつ鍋が好きで、ジャケットは仕事以外で着たくないからと、いつもすぐに脱いでしまう人。
そうだ、彼だった。
変な女の子に騙されて、旅行まで連れて行っちゃうような、どうしようもない人だった。
けど、私を愛しているって言ってくれた。
ずっと一緒だって言ってくれた。
そうだ神様だった。
何で気が付かなかったんだろう。
拓也さんは神様だった。
顔を近づけて目を合わせる。手のひらでお互いの頬に触れる。
確かに神様は私と一緒に行動していた。
拓也さんとは別の人で、拓也さんとは別の顔だった。
けれど、神様がどんな顔だったのか、ぼんやりとしていて、曖昧にしか思い出せない。
「ここへ来て、思い出したんだ」
低く心地よい声で、拓也さんは続ける。
「思い出したというか、神様だった自分に、拓也だった自分が合体したようなそんな感じかな」
合体したんだ……
「小春はずっと、子供の頃から人間の寿命を見る力を持っていたよね」
私は頷いた。
「俺にはその子を守る役目があった。こっちの世界では守り人っていうんだ。人間として生まれて、その子の側で付き添い護衛役として生きる。神としての記憶はその時なくなった」
「拓也さんは私の守り人だったのね?」
ああそうだよと言って私の手を取り歩き出した。
「人間らしく間違ったり、やり直したり、努力したり、怠けたり、苦労したり、成功したり、しくじったり。それはそれは人間くさく、ずっと生きてきたんだ」
「ええ。人間らしかったわ」
私は今まで起こったいろんなことを思い出した。
貴方はかなりしくじっていたわ……と、くすりと笑う。
「君が人生を終えたと同時に、守り人としての役目も終わった」
「終わったの?」
「そうだよ。だから」
「だから?」
「これから先は自由にできるんで……」
「うん」
拓也さんは一つ咳払いをすると、真剣な顔つきになって私に言う。
「もう一度、僕のお嫁さんになってくれる?」
「ええ。もちろん。神様のお嫁さんになるわ」
私は彼の手をぎゅっと握った。
彼はその手を引き寄せて私を思いきり抱きしめた。
◇
彼は下界が見える大きなゲートの前に、私を連れてきた。
「これが現世と天界を結ぶゲートだ」
「ここから出入りするのね。天界のゲート……」
それは煌びやかな装飾が施された大きな門だった。
フワフワした虹色の雲の上に建ち、どっしりと、あたりを圧するような
存在感を放っている。
「凄い……」
思わず感嘆の声をあげた。
「そう。いつだって人間界に行くことができる。映画だって観られるし、美味しい食事もできる。動物園だって植物園だって、コンサートやフェスも行ける。好きな場所で好きなことができるんだよ」
彼は自慢の『天界スペシャル特典』を次々と紹介してくれた。
私はニコニコしながらそれを嬉しそうに聞いている。
「そうなのね。なんだかワクワクするわ」
けれど、私は拓也さんと一緒にいられたらいい。
それだけで十分満たされて幸せだ。
「まずは、どこへ行きたい?遊園地、ランドでもいいし、ハワイでもいい」
「そうね……」
「どこでもいいよ」
「うん」
「また桜島へも行ける」
「そうなのね」
「本当に、いろんなところに行けるんだ」
「わかったわ」
私は頷いた。
「どこにでも……」
「うん」
「いつだって……」
「ええ」
「……」
彼は私の腰をぐいっと引き寄せ私を見つめた。
長いまつげが頬に掠って、彼の唇が優しく触れた。
ーーーー 完 ----
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