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それでも朝はやって来て一日の奉仕が始まる。
私は石鳥居の前を箒で掃いていた。
昨夜、強い風が吹いたせいか参道に落ち葉が散らばっている。
清掃は毎日の奉仕だ。神職の基本は掃き清めることからだ。
「今日は落ち葉が凄いねぇ」
若い男性に声をかけられた。
この辺りでは見かけない人だ。とても整った美しい顔をしている。
氏子ではないだろうし、地域の方でもない。
清潔感がある白いシャツにスラックス姿。ネクタイはしていない。
業者さんかもしれないと当たり障りのない返事をした。
「そうですね。早く冬支度をしなさいよと落ち葉が教えてくれているみたいです」
彼はくすりと笑った。
何か私に質問があるのかと彼の言葉を待ったが、特に何も話す気はなさそうだ。
「社務所は参道奥右手にあります。参拝されるのでしたら本殿はあちらです」
私は彼の為に道を開けた。
「君は僕のことを忘れてしまっているんだね」
「……え?」
彼の言葉に、もう一度改めて顔を見る。
……いや、記憶にはない。
「あの……申し訳ありません。氏子の方でいらっしゃいますか?」
「違うよ。ここの神様だよ」
「はぁ……」
こういう人の場合は、話を長引かせてはいけない。
「どうぞお足下お気をつけてお参りください」
軽く頭を下げて、私はそそくさとその場を後にした。
◇
たまに自分は神様だとかいう変わった人が現れる。
そうですかと適当に返すこともあるが、たいていの場合聞こえなかったふりをして、その場からそっといなくなる。
目が血走っていたり、やたらお酒臭かったりして危険を感じた時は走って逃げる。
そして誰かに助けを求める。
今日の人は特に危険ではないだろう。
念のため社務所の入り口に鍵を掛け椅子に座った。
私がいなくなった後、この神社はどうなるだろう。
じっとしていると、いろいろと考えてしまう。
夫はきっと神社には残らないだろう。もともと神職というものに興味がある人ではなかった。
彼は私と結婚する為に会社を辞めて神主になってくれた。
講習会や通信講座に参加してくれたし、有給を使い、地方の神社で実地研修もしてくれた。
そして勉強して資格を取得した。
けれど、神職というものは、自身の信仰の下に神への感謝の気持ちを持つ人でないと務まらない。
働いた分賃金が上がるわけでもなければ、土日や年末年始の休暇などはない。
品行方正に振舞い、氏子に良い印象を与え、近所の人からの陰口にも耐え、奉仕活動を率先して行う。そして、それに喜びを感じなければならない。
そんな人間、正直いるわけがない。
私と結婚したから、拓也さんはこの神社を継がなければならなくなった。奉職は彼のやりたい仕事ではなかっただろう。
けれど彼は、それでもいいと言ってくれた。
私は彼をこの世界に無理やり引き込んでしまった。そしてずっとその負い目を感じている。
結婚したのが私でなければ、会社を辞める必要はなかった。
残された寿命は、もうあと半年だ。
今更、彼との泥沼の離婚劇など繰り広げるつもりはない。
このまま穏やかに、何事もなかったかのように死ねたらそれでいい。
不倫相手と逢瀬を楽しんでいるのを今更邪魔するつもりはない。
彼は夫婦でいたくないかもしれないが、もうしばらくの間だけ、一緒にいてほしかった。
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