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ドアの開いた事務所のそとで何かが割れる音がした。
立ち上がって見ると藤原君が手にしていたマグカップを床に落としてしまったらしい。
エレベーターのそばの非常階段の前で、
彼は床に広がっていく液体と散らばる資料、そして手に携帯電話を持ち、微動だにせず眺めていた。
辺りにコーヒーと香り高い何かの香りが漂い始めているのに
驚いた顔もせずにじっと床を見ている。
こんな状態なのに彼は無表情だ。
端正な顔立ちにすらっとしたスーツ姿。
何をしても堂々とした感じ。
でも、今日は固まっている感じにも見えない?
私は立ち上がってビニール袋とウェットティッシュの筒を掴んだ。
そういえば子沢山のママで密かに藤原さんに推し活中あきこさんが言っていた。
藤原君は『物事にあまり動じないように見えるタイプ』らしい。
翻していうと機敏とかよく気がつくとか絶対に言われないタイプ。
心の中の動揺は凄いが、それを外に表さず
自分が冷静になるまで待ってから動き出すからスタートが人より遅いのだ。
だからそういう所にイラツいても彼を責めないで上げないでねと彼のアシストも少しする事になった私にのたまう。
あきこさん、もしかして普段彼にイラついたりしてるの?とその時は思ったが、
そういう訳でもなく、可愛い末っ子が同じタイプだからと優しい目でみているらしい。
同じ遺伝子や環境で育てたのに全く性格の違う子供たちを観察し導く母目線のお言葉は絶大だ。
パラパラと集まった人達で濡れた床を拭き取って、コーヒーの染みがついた
封筒を見る。
「この資料、パソコンに残ってますか?」
藤原君を見る。
これって営業先は元メンタル上司の案件だ。
4日前、突然同じ課の上司がメンタルをやられて長期休暇に入り
現在、残りのメンバーで手分けして仕事を引き継いでいるが、まだ慣れないし、知らない事も多くて何かと時間がかかっていた。
だから毎日深夜まで作業している状態だ。
私は派遣だし残業はしてない方だったけど、それでも仕事量は増えた。
それでいつもよりキツキツのスケジュールで仕事を回していた
元上司は仕事出来るから彼の名前のファイルの中には膨大な量の資料がある。
だから一つのテキストを見つけるのもある程度は割り出せても時間がかかる。
彼もそれに気づいたみたい。
「…多分」
彼の表情は更になくなった。
結局資料は元アシスタントの私が探す事にして、藤原君には話して、残っている仕事を片付けるように即した。
まだ私の方がファイルを見慣れているからだ。
夕方、私の方はそれほど残業はせずにすんだが藤原くんはまだまだ残っているらしい。
帰る前に藤原くんに声をかける。
「大丈夫?手伝うことありますか?」
藤原くんはパソコンを扱う手を止めて、ゆっくりと振り返った。
「大丈夫です、ありがとうございます」
顔が整っているので逆に表情が読めない。
それに、普段からそうだけど、背筋も真っ直ぐで疲れてるように見えないんだよね。
「そういえば、お昼ご飯食べました?」
「はい」
心が入っていないお返事。
「コーヒーは?マグカップもうないんでしょう?」
「…」
飲まず食わずか…
「二日酔いで…」
藤原君には似合わない言葉が出て動揺する。
凄いな、全然気が付かなかった。
「昨日の夜に、木下さんが」
えっ営業科のおじさんの木下さん?
また藤原君には似合わない世渡り上手な狸ジジイだ。
「引き継ぎ先に顔通ししてやるからと言われて飲みに行って…結構飲んだから調子が悪かったんだけど」
木下さん、親切でそうしたのかもしれないけど、藤原くんを連れ回すとは…ここの皆が疲弊しててる事理解してて欲しかった…
「休憩室でコーヒーを買っていたら木下さんも休憩に来ていて、向かい酒にとコーヒーにブランデーを大量に入れられたんだ」
「うわっ」
気つけ薬と称していつも持ち歩いてる彼ご自慢のブランデーね。
「二日酔いで飲む気もしないし、そうでなくてもオフィスで昼間から酒なんて飲めないし。
とはいえそれを本人の前で捨てる訳にもいかないし。
それで別の階の休憩所で処分しようと、
エレベーターに乗ったら、そこに
本部長がいて」
本部長…ワンマンの強面、織田本部長か…
最悪だな、お酒なんてバレたら首は飛ぶだろう。
切腹ならぬ、自己退職よね。
「すぐにエレベーターを降りてみたけど匂いでバレたかもしれないとヒヤヒヤしていたんだ。
追いかけられないように、非常階段で下りてドアを開けようとしたら今度は携帯に取引先から電話がかかってきて、ドアを押さえつつ資料を小脇に抱えて、ポケットから携帯を取り出そうとしたら、持っていたコーヒーと資料を落としてしまった。
身体が固まったよ、どう反応したらいいか分からなくなってさ。
その時、偶然エレベーターが開いてさ、松平次長が出てきたんだよ」
松平次長…
「あっはっはっはっは」
突然笑い出した私に、
藤原君はまた無表情に
…あれ?なってない。
ちょっと苦笑いしてる。
「最悪ですよね、よりによって変人上司トップ3に1日で会うなんて」
駄目だ、笑い過ぎて涙出てきた。
でもヤバくない?これ。
めっちゃ悲喜劇…
この人悪い事全然してないのに振り回されてるの。
しかも、周りからはヒヤヒヤしてるなんて全然見えないんだよ。
「…御駄賃くれたら外で何か食べ物買ってきますよ」
「いや、いいよ」
「ちゃんと御駄賃もらいますから、さっ、買って来るまでお仕事再開しましょう」
私は『大丈夫だから』というポーズを取ると事務所を後にした。
買い物を済ませて事務所に戻ってくると藤原君は机の上で伏せて眠っているようだった。
起こしても悪いと思って
小声で
「ここ、置いときますね」
と言って席を離れようとした時だった。
藤原君が、急にむくっと顔を上げると
私の手首を掴んだ。
「かたじけない」
藤原君はそういうと、私を掴んだまま無言になり、再びうつ伏せて眠ってしまった。
きっとお礼を言わないとって思ったんだろうな。
律儀だな、でも『かたじけない』かぁ。
藤原君、面白い。
私はこの日から彼の見方が変わってしまったのだ。
この後、どうなるかは
また次のお話…
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