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「お疲れ様でした」
飲みの誘いを断って、男ばかりのむさ苦しい町工場を出た。
向かった先は昔馴染みのケーキ屋さん。
子どもの頃から甘いものが好きだった俺は、母親や祖母に手を引かれこのケーキ屋を何度となく訪れた。
誕生日や記念日、ちょっと頑張ったご褒美はいつもここのケーキ。新しいケーキ屋が近くに出来てもそれは変わらず、店に行くといつも誰かしら客がいた。長年、地域の人々から愛されてきた店だ。
子どもだった俺も今年で五十路。
ケーキ職人の店主と、店番をしていた奥さんも今じゃいいジィさんとバァさんだ。最近孫夫婦に店を譲ったとかで、たまに行くと店先でひ孫と遊んでいるのを見かける。因みに、ジィさんの息子は店を継がず普通の会社員をしているらしい。孫はまだ二十代だ。製菓の専門学校を卒業して暫く他の店でケーキ職人として働き、この店を継いだ。
定番のケーキの味は変わらなかったが、代替わりしてからちょっとした変化があった。月替わりケーキができたのだ。定番のケーキ含め、俺はこれを毎月密かな楽しみとして通っていた。
今日はその、月替わりケーキの発売日。月に一度、何があっても発売日に買う事にしている。だから、飲みの誘いも断った。
(酒も飲めなく無いんだけどな…。すぐ赤くなっちまうし……)
オレンジ色に染まる商店街の中をブラブラ歩いていると、仕事帰りの人や夕飯の買い物をする主婦、学校帰りの学生なんかとすれ違う。夕方の町は賑やかだ。通りかかった肉屋からコロッケを揚げる香ばしい香りが漂ってきたが、俺の足取りに迷いは無い。
「カトレア」
カタカナで書かれた看板の文字が見えてきた。店先には小さな子どもとジィさんの姿ががある。こちらに気が付くと、ジィさんはシワがある顔に更にシワを寄せてクシャッと笑った。
「やぁ、剛くん、久しぶり」
「こんにちは。あ、もうこんばんは、か」
「あはは。元気そうで何よりだよ。お母さまはご健勝かい?」
「はい、お陰様で」
「そうかそうか」
「じぃじ!こっち!」
孫に手を引かれジィさんはおっとっと、とよろめく。俺が慌てて手で支えようとすると「大丈夫だよ」と何とか体勢を立て直した。そのままひ孫に手を引かれ、店から離れていく。呆然とその姿を見ていた俺に、ジィさんは顔だけこちらに向けて言った。
「いつものだろう?透くんに剛くんの分取り置きしてもらってるから」
「有り難うございます」
小さく会釈すると、俺は店に入った。
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