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寺町大通りに出ると丁度良い具合に流しのタクシーが通り掛かった。右手を挙げるとタクシーは背後を確認し道路を回転、反対車線の嵐山龍馬の前に乗り付けた。
「悪いが南町、尾山神社の通りのマンションまで頼む」
「南町レジデンスで宜しいですか」
「あぁ、頼む。支払いはチケットで」
タクシー乗務員との遣り取りはそれなりの身分だが如何せん風体が宜しくない。乱れた頭髪、目の下のくま、薄らと生えた髭、皺だらけのワイシャツ、昨夜の出来事が見て取れる様な有り様だった。
(あの建物だな、うん)
寺町交差点を下菊橋へと続く下りの急勾配。後部座席の窓から仰ぎ見るとあの女性が住むマンションが目視出来た。あまりに慌てていた為に名前を尋ねる事も表札を確認する事も失念していた。
「あれはーーー誰なんだ」
「はい?なにか仰いましたか?この道で良いんですよね」
「ああ、失敬。このまま行ってくれ」
ところがタクシーを降車する際、左手首にある筈のステンレススチールの腕時計が無い事に気が付いた。それは祖父から譲り受けたパテックフィリップのノーチラス、自身では到底手が出ない一生物の腕時計だった。
(こっ、これはお祖父様になんと申し開きをすれば良いのだ!)
昨夜の失態からの時計の紛失、しかも離婚届ではなく婚姻届と泣きっ面に蜂、嵐山龍馬はベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。
(だが)
然し乍らあの女性はまさに理想、もう一度お願いしたいと股間がむずむずと落ち着かない。酩酊状態で15分保つことが出来たのだろうか、いや、15分とあの女性は言っていた。
「ーーーまさか時計で測ったのか!」
いやいやそんな筈は無い。首を左右に振りながら2番目の妻にLINEメッセージを送信した。
<もう一度会いたい>
既読
そのメッセージに返信は無かった。
「既読無視かよごるあ!」
その後数回にわたりメッセージを送信しているうちに既読すら付かなくなってしまった。まさかのLINEブロック、慌てて携帯電話を握ってみれば(只今、この電話番号はお繋ぎ出来ません)と機械的なメッセージが繰り返された。
「ーーーえ、なに、これはどうすべきなのだ」
薄茶色の婚姻届はゴミ箱の中、嵐山龍馬はもういちどベッドに倒れ込んだ。
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