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嵐山龍馬は紺色の傘を差し居酒屋ゆうの前に佇んでいた。
(ーーーそうだった)
そこに暖簾は見当たらず出入口には定休日の札が下げられていた。片町の飲み屋の定休日は月曜日である事が多かった。居酒屋ゆうも例に漏れず今夜明かりが灯る事は無い。
(かくなる上は、あのマンションの女性)
嵐山龍馬の喉仏が上下した。この店の女将である結城の母親があの女性である確率は限りなく高い。白か黒かといえばグレーゾーンだが白でない事は確かだ。
(私は妻帯者でありながら部下の母親と寝たのか)
今の嵐山龍馬にとってノーチラスの時計どころでは無かった。
(どんな顔で会えば良いのだ)
不倫でしかも15分間とは情けなさの極み。あの女性も「ぷぷーーーっ短っ」と心の中で嘲笑っていたのではないかと考えるとタクシーの後部座席の窓を叩く事すら躊躇われた。
(気が重い)
月曜のタクシープールは客待ちの空車がずらりと並んでいる。どれにしようか悩んだが景気の良さそうな黄色のタクシーを選んだ。
「すみません、名前は分からないのですが寺町の下菊橋あたりに5階建てのマンションはありますか」
「あーーー2、3軒は有るかな」
「細い路地の突き当たりなんです」
「あーーーじゃああそこかな、行ってみますか?」
「お願いします」
タクシー乗務員の勘は大当たりでバス停近くの路地の突き当たりにそれらしきマンションが立っていた。曲がり角に古い写真館があったので間違いなかった。
「支払いはチケットで」
「毎度ありがとうございます」
後部座席の扉が閉まる音で心臓が跳ね上がった。52歳にもなってなにを慄いているのかと建物を見上げエントランスで傘の雫を払う様に羞恥心を払った。
「郵便ポスト」
郵便ポストは殆どが無記名で5階の一番端と思われる501号室には蒼井とあった。
(蒼井という名前の女性なのか?)
上昇するエレベーターの様に嵐山龍馬の血圧も上昇した。
「鼻血が出そうだ」
ぽーーーん
5階のエレベーターホールで左右を窺い見ると501号室の前には観葉植物が並べられベビーカーが置かれていた。
(当たり前だが赤ん坊は居なかった)
そうなると5階の一番端、510号室があの女性の部屋だ。嵐山龍馬は廊下を一歩踏み出した。
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