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「先日はご迷惑をお掛け致しまして!」
「ご迷惑、ですか?」
「き、金曜日の夜です!」
そして額は床に付いたままだ。
「申し訳ございませんでした!」
「なにかありましたっけ」
「べ、ベッドに!」
「あら、その事ですか?」
「はい!申し訳ございませんでした!」
由宇は珈琲カップを2個取り出すとリビングテーブルの上に置いた。
「まぁ、そんなお顔を上げて下さい、ね?」
床に擦り付けた額を上げると眉間は赤くなっていた。そして見上げた先にはローアングルのショートパンツから覗く太腿、嵐山龍馬の顔は更に赤らんだ。
「お顔が赤いですね、お熱かしら」
「い、いえ、あの、その」
「どれどれ?」
発熱しているのではないかと言いつつ華奢な指先をその額に当てた。
「熱はっ、熱はありません」
「どれどれ?」
屈んだTシャツの襟首から覗く胸の谷間に思わず目を瞑る嵐山龍馬の初心な動作に由宇は失笑した。このまま口付けをしたらどの様な反応を見せるのか興味津々だったがそれは流石に度が過ぎていると我慢した。
「お熱はない様ですね」
「そうですか」
「珈琲如何ですか?」
嵐山龍馬は至近距離の緊張感から解き放たれ安堵の表情を浮かべた。由宇はその姿を横目に珈琲ポットを持ち床に座った。珈琲カップに注がれる芳しい香り。
「ありがとうございます」
「お砂糖とミルクは」
「お砂糖下さい」
(お、お砂糖だと!一々可愛いんじゃ、ごるあ!)
そこで鶴はGODIVAのチョコレートを一箱置き深々と頭を下げたがそのテーブルの角に額をぶつけて顔を顰めた。
(この人って、実は鈍臭い?)
兎に角、額を何処かに打つけているので脳味噌が片寄ってしまいハイスペックなロマンスグレーが残念な鶴に成り下がっているのではないかと由宇は想像した。
「これは」
「粗品ですが、お詫びの品です」
「粗品だなんてGODIVAのチョコレート好きなんです!」
焦茶のパッケージにマンダリンオレンジのリボンを解くと由宇は目を輝かせた。その嬉々とした表情に満足げな嵐山龍馬は珈琲に角砂糖をひとつ落とした。
「それで、わざわざこれを届けに?」
「それもありますが」
「ありますが」
「あなたの」
「私の」
「あなたのお名前を失念してしまいまして」
(マジか、本当にこの人部長なの?文鳥の間違いじゃないの!?)
由宇は呆れた顔で声を大にした。
「結城由宇です」
それを聞くなり鶴はもう一箱のGODIVAを差し出した。
「二箱?」
「はい、あの夜のあなたと結城くんのお母さんにお詫びの品をと思いまして」
「同一人物ですが」
「いや、なんというか」
嵐山龍馬は視線を上向きにして目を左右に動かし始めた。
「なんというか、なんですか?」
「あの夜のあなたと」
「私と」
「結城くんのお母さんは別人として考えたいな、と」
「はぁ」
如何やら嵐山龍馬は金曜日の晩、由宇と事に至ったと思い込んでいる。然し乍ら部下の母親とのセックスは受け入れ難いと言った。
「ややこしいですね」
「申し訳ありません」
「そう言えば」
由宇は嵐山龍馬の左の薬指に光る結婚指輪に言及した。ただし嵐山龍馬は離婚届を提出する気満々な状況にありその結婚指輪に意味が無い事を由宇は重々承知していた。いつもの悪戯心だった。
「嵐山さん、ご結婚されていたんですね」
「ーーーーそっ!」
思わず左手を隠す辺り後ろめたさが見て取れた。それを見た由宇は女優さながらに下を向くと「結婚しているのに私と寝たんですね」と声を震わせた。
「そっ、それはなっ!」
「やっぱりそうなんですね」
「いやっ、それは!」
その慌て振りは滑稽でにじり寄った肘がテーブルに当たり小皿に積んだ角砂糖のピラミッドが崩れた。
「不倫、ですね」
「ち、違います!」
「男の人ってみんなそう言いますよね」
「由宇さん、違います!」
嵐山龍馬は由宇の手首を握るとその顔を凝視した。その顔はまさにハイスペック、然し乍ら残念な鶴。良い雰囲気の筈が由宇の口元は可笑しさで歪んだ。
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