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ところが独り身になった女将に懸想する権蔵や笹谷を始めとする有象無象が店を独占し、嵐山龍馬は雨の中で紺色の傘を差し待つ事になってしまった。足元に波紋が出来、革靴が雨に萎れた。
(動悸が止まらない)
待つ苦痛よりもこれから由宇に伝えるべき言葉を考えあぐね時間はあっという間に過ぎた。雨足が強くなる頃店先に3台のタクシーが着けられた。
「ごちそうさま、また来るよ」
皆散り散りにタクシーの後部座席に乗り込むと店内は静かになった。
「じゃあな、由宇ちゃんおやすみ」
地主の権蔵が最後の客だったらしく由宇が軒先まで見送った。ところがその暗闇にずぶ濡れの紺色の傘が立っていたものだから「きゃっ」と小さく悲鳴を上げた。
「あら!嵐山さん!」
由宇はその傘が嵐山龍馬だと気付き中へと招き入れた。
「暖簾、下げますね」
入口には準備中の札が掛けられ赤提灯の灯りが消えた。由宇は店の奥からタオルを手に持ちその身体を拭いた。
「嵐山さん、入って下されば良かったのに」
「お忙しそうでしたから」
「満席でしたものね、ごめんなさい」
「これ、どうぞ」
桔梗の花には雨が滴り包んだ紙は見る影も無かった。然し乍らそれを受け取った由宇は満面の笑みで応えた。
「お花を頂くなんて、嬉しい」
「一輪で申し訳ない」
「いいえ、嵐山さんこの花瓶に気付かれたんじゃないですか?」
カウンターの端には白磁の一輪挿しが出番もなく埃を被っていた。それを見て由宇は溜め息を吐いた。
「離婚騒動で気忙しくて、花を生ける事も忘れていました」
「そうですか」
「ありがとうございます。今、生けますね。お座りになって」
「はい」
表は雨音で人通りも少ない。時折タクシーの行灯が通り過ぎるだけの静かな時間が流れた。
「ちょうど良いわ。素敵ね、ほら!」
「由宇さんに似ていたので桔梗を選びました」
「あら、私はこんなにお淑やかでは無いですよ」
「私にはそう見えます」
「お上手ね、熱燗おつけしましょうね」
「ありがとうございます」
徳利に注がれる日本酒の香、下戸の嵐山龍馬はそれだけで酔いが回る様な気がした。
「嵐山さん、今夜はお猪口に2杯だけよ、明日もお仕事でしょう」
「ああ、そうですね。また正体が無くなると由宇さんにご迷惑をお掛けしますから」
「ご自宅が分からなくて困りました」
嵐山龍馬は自宅マンションの住所をメモし、今度からここに送り返して欲しいと笑った。
「あら、私の部屋にお泊まりにならないの?」
由宇が冗談めいて微笑むと嵐山龍馬はお猪口を口元から離して凝視した。
「良いんですか」
「良いわ」
カウンター越しに絡み合う視線。今夜大人の恋が始まろうとしていた。
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