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「ありゃ、雨や」
ポツポツと雨が空から落ち始め傘を持たない客がひとりふたりと席を立った。勘定を済ませた由宇はいつもの様に暖簾を下げ準備中の札を出入口に掛けた。赤提灯が消えた2人だけの店内で嵐山龍馬は箸置きや箸をまとめ空になった小鉢を由宇に手渡した。
「ありがとうございます、手伝わせてしまって」
「手伝わせて下さい」
嵐山龍馬はスーツを脱ぐとワイシャツの袖を捲りダスターでカウンターを拭き始めた。茶碗を洗う水音だけが響き無言の時間だけが過ぎていった。
「あの」
「あの」
2人同時に顔を挙げて声を発した。
「あの」
「はい」
気不味さが漂ったその時、嵐山龍馬は黒豆もやしがボウルに盛られている事に気が付いた。
「それ」
「あぁ、もやしですか」
「はい」
「ひげ根を取らなくちゃいけないんだけど担当者が居なくなって困ってるの」
「私に取らせて下さい」
「ひげ根を?」
「はい、私の離婚の原因のひとつは(ひげ根を取る)神経質なところだそうです」
「あら、まぁ」
ぎしっ
カウンターに並んでもやしのひげ根を取り始めると今度は壁掛けの時計の針の音が2人の時間を刻み始めた。
「静かですね」
「静かですね」
視線が絡み合った。由宇がゆっくりと瞼を閉じ、指先はもやしを摘みながら何度も繰り返しキスを交わした。
「嵐山さん」
紅の唇がゆっくりと動いた。
「今夜は泊まって下さる?」
「ーーーーはい」
「じゃあ頑張ってひげ根を取らないと帰れませんね」
「頑張ります」
「ーーーーはい」
そして2人は微笑み合い、もやしのひげ根を根気よく取り続けた。
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