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結局、営業中に嵐山龍馬が店に現れる事は無かった。ひとりで暖簾を下ろし、ひとりで準備中の札を掲げひとりで赤提灯の明かりを消す。ひとりで箸置きや箸を集め器を下げた。金曜日の晩は2人で店仕舞いをする事が当たり前になっていた。
(勘違いも甚だしいわ)
もやしのひげ根を取りながら店先に人影が往来する度に顔を挙げたがそれは皆素通りした。ポタポタと白い割烹着に涙が滲みを作った。毎週金曜日に届けられていた桔梗の花も項垂れ、それを眺めていると頬に滴が伝った。
(嵐山さん)
いつの間にこれ程迄に嵐山龍馬の事が好きになっていたのか。
(ーーー私も結婚したいって素直に言えば良かった)
由宇は今までの自分の発言を悔いた。そして嵐山龍馬は次の週もまたその次の週も店に顔を出さなかった。源文に尋ねれば出社し普段通りに勤務していると言った。
「なに、母ーちゃんなんかあったのか」
「ううん、なんでもない」
「なんかあったら俺に言えよ」
「うん」
その言い種は会社で嵐山龍馬に殴り掛かりそうな勢いで流石に言い出せなかった。
(ーーーもう来ないのかもしれない)
由宇は携帯電話を握ったが、街で見掛けた時と同じく自分からの着信を無視されるのではないかと思い発信ボタンを押す事が出来ずにいた。
(そう言えば)
嵐山龍馬が「居酒屋ゆうに忘れた」と探していた高級腕時計を手渡す事をすっかり忘れていた。
(大事な物ですもの、お返ししないと)
由宇は腕時計を返す事を言い訳に嵐山龍馬のマンションを訪ねる事にした。
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