舌先三寸

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舌先三寸

「またお越し下さいね」 「また来るよ、明日も来ちゃおうかな」 「あら、嬉しいわ」 「嘘、嘘、冗談だってまたね」 「まぁ、嫌だ。またお待ちしていますね」  午前0時を過ぎると由宇はいつものように準備中の札を出入り口に掲げ暖簾を下げて赤提灯の明かりを消した。大きなため息が漏れる。 (如何しよう)  いつもと違う事と言えば奥の6畳間に電気が点き、そこに180㎝超えの大男が大の字になって(うめ)いている事だ。由宇は箸置きと箸を纏め小鉢をシンクの洗い桶に浸した。 (なんて言えばいいの)  食器用洗剤の泡ではあの衝撃的な一場面を洗い流す事は出来そうに無かった。静けさの中、水音に気が付いた嵐山龍馬が店に顔を出した。 「由宇さん」  その顔は腫れ上がり酷いものだった。普段の由宇なら駆け寄って気に掛ける所だが今夜はそんな気分にはなれなかった。 「お加減いかがですか」 「あの、昼間の事なのですが」 「なんの事でしょうか」  由宇は鍋を洗う手元から視線を上げなかった。嵐山龍馬は革靴を突っ掛けると踵を踏んだままカウンターに近付き椅子に手を掛けた。由宇は刺々しい声色で呟いた。 「ーーーー(めかけ)ですか」 「なんですか、聞こえませんでした」 「私が嵐山さんの求婚にお答えしなかったから!私は妾ですか!」 「そんなつもりはありません!」  由宇は怒りを顕にすると涙を浮かべた。 「所詮、居酒屋の女です。その程度のお付き合いだったのでしょう!?」 「そんなつもりはありません!」 「ではあの方はどなたですか!」 「妻です!」  妻、その言葉を聞いた由宇の心は凍り付いた。 (ーーーそうだった、この人には奥さんがいた)  妻と誰も咎めない、なんら不思議はなかった。例え理由が如何であれ世間一般的に考えれば由宇が浮気相手だった。 「そう、ですか。奥さまだったんですね」 「そうなんです!だから!」 「だからなんですか」 「妻、だから」 「奥さまとセックスして私には黙っているおつもりだったんでしょう!?」 心の声A(如何するよ) 心の声B(これはかなり怒っているよね) 心の声C(妻は禁句だろう、妻は!) 心の声D(実際黙っているつもりだったんだろ) 心の声一同(救いようのない馬鹿だな) 「それは」 「そうなんでしょう!」 「ーーーー申し訳ない」  顔色を変え眉間に皺を寄せた由宇は茶碗を握り振りかぶった。九谷焼の茶碗は嵐山龍馬を(かす)めると(あお)い土壁で割れ粉々に砕け散った。 「由宇さん」 「出ていって」 「由宇さん」 「出ていって!」  今の嵐山龍馬がなにかを口にしたところで舌先三寸の言い訳でしかなかった。もうひと鉢の茶碗が割れる前に嵐山龍馬は簾暖簾を掻き上げたがそれは非常に重く感じた。 (此処にはもう2度と来れないのかもしれないな)  涙を流す由宇を振り返り嵐山龍馬は唇を噛んだ。
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