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普段の業務では寡黙、そして何事にも手厳しい上司が女性に対し真顔で「美しい」とのたもうた。しかもその相手が実の母親に対してとなれば源文的にはむず痒くて仕方がなかった。隣を見遣ると惚けた面差しの上司が母親を見上げている。
(ど、どっひゃーー!)
しかも母親も満更ではない面差しで上司に微笑み返している。かなり良い雰囲気で母親の第2の人生を慮った源文はビールのグラスをカウンターに置き静かに椅子から降りた。
(この際不倫でも構わねえ!母ちゃん部長に大事にして貰えよ!)
「か、母ちゃん」
「なに?」
「俺、用事が出来たから部長の事頼むわ」
「頼む?」
「そいつ滅茶苦茶、酒弱ぇから」
「えっ!」
そういえば店に入って来た時よりも頬は赤らみ瞼が蕩けていた。まぁ、なんとかなるわと引き受けたものの嵐山龍馬は泣き上戸だった。
「で、それでですね!」
「はいはい」
鶴があまりに泣きじゃくるので由宇は仕方なく店の暖簾を下げ準備中の看板を掲げた。店の外では「なんでぇ、休みじゃん」と若い群れが引き返して行った。
「それで、如何なさったんですか?」
由宇は嵐山龍馬の隣に座ると背中を摩った。話の流れでは自分は2度離婚している(2度目は離婚届提出待ち)が離婚を切り出された理由が分からない、自分は人間関係の構築が出来ない欠点だらけの人間なのだとおしぼりで鼻をかんだ。
「嵐山さんは部長さんで管理職をなさっているんでしょう?」
「はい」
「お勤めをされているんですもの大丈夫ですよ」
「そうでしょうか」
「源文も素晴らしい上司の方が居ると喜んでいましたよ」
「そうでしょうか」
「そうですよ」
由宇がその頭を撫でていると驚きの事実が判明した。嵐山龍馬は南町に本社を構える嵐山ホールディングスの後継だという。
「あの、嵐山」
嵐山ホールディングスは金沢駅周辺の企業の株を何社も保有している。
「あの、嵐山ですか」
「はい」
鶴は祖父の偉業や遣り手の父親の実績を事細かに並べた挙句、自分は後を継ぎたくない「嫌だ嫌だ嫌だ」と子どもの様に駄々をこね始めた。
「妻ひとり管理出来ない男に代表取締役なんて務まりません」
「そんな奥様を管理するだなんて」
「私は不倫されたんですよ、管理不行き届きです」
「そうですか」
「そうです」
それは今の由宇にとっても耳の痛い話であった。
「由宇さん聞いて下さい」
「はいはい、今度はなんですか?」
次に夜の生活お悩み相談室が始まった。水商売には付き物の下品な話題、然し乍ら嵐山龍馬の悩みは切実だった。現在離婚届提出待ちの2番目の妻からはセックスが下手だと逆三行半を突き付けられたと言って泣いた。
「触る順番が同じ」
「はい、それでつまらないと言われました」
「それで」
「挿入から射精まで毎回15分間だと指摘されました」
「まぁ、奥様も細かい事」
然し乍ら由宇は内心その女性が羨ましいと思った。元夫とは源文が生まれてから23年間セックスレスでキスどころか手を繋ぐ事すら無かった。魅惑的なランジェリーを身に着けて誘った事もあったが40歳を過ぎた頃には乾き切った夫婦生活が当たり前になっていた。
「15分もあればあんな事やこんな事が出来ますよ」
「あんな事、こんな〜こんな〜こんな事とはなんでしょう」
聞けば挿入後も正常位のみだった。由宇はため息を吐いてお猪口に熱燗を注いだ。
「こんなに格好良いのに残念な人」
「ふあい?」
「お家柄も立派、高収入、高学歴ーーーあら」
日頃の鬱憤を全て吐き出した残念な鶴はカウンターに突っ伏して寝息を立て始めてしまった。
「あら、嵐山さん、寝ちゃ駄目ですよ」
「んが」
「んがじゃありません!」
その肩を揺すっても背中を叩いても大いびき。
「困った鶴ね!」
いつか起きるだろうと茶碗や鍋を洗い翌日の仕込みをし柱時計を見上げれば01:20となかなか良い時間。この時間帯を過ぎると街中からタクシーが姿を消してしまう。
「タクシー1台お願いします、はい、片町の居酒屋ゆうです、はい」
タクシーの配車を依頼し店内の電気を消す。程なくして緑色の行燈が店先に着けられた。
(うーーん)
由宇は鶴の巣が何処なのかを知る由も無かった。源文にLINEメッセージを送信してみたが既読にはならなかった。
「すみません」
乗務員の手を借りて全身の力が抜けた180㎝超えの鶴をタクシーの後部座席に押し込んでビジネスバッグを中に放り込んだ。
「どちらまで」
「プラザ寺町までお願いします」
由宇は残念な鶴をお持ち帰りした。
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