顔のない侵入者

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 峰岸玲子は自宅の一室で、キャンバスに向かってアクリル画を描いていた。題材は目の前のテーブルに置かれた花瓶だ。青い紫陽花が生けられていて、ブラインドの隙間からわずかに差し込む光を受けてやさしく輝いていた。  アクリル画は油絵と比べてきつい匂いが感じられず、乾きも早いところが玲子は気に入っていた。学生のとき以来、しばらく絵を描くことから遠ざかっていたが、これなら続けられそうだ。  絵を描くことは、ざわついた心を静める効果もあった。玲子の夫が亡くなってから、半年が経とうとしていた。絵を描くことに集中していると、さまざまな不安な思いが薄れていく気がする。  絵筆についた絵具を水で溶いていたとき、玄関のベルが鳴った。玲子はリビングに向かうと、インターホンのボタンを押した。 「はい?」  モニターを見ると、スーツを着た男の姿が映っていた。大柄で体格がよく、鋭い目つきをした男だ。  「峰岸さん? 私はこういう者ですが……」そう言いながら、男はカメラに向けて警察手帳を掲げた。「ご主人のことで少しお話をうかがえればと」  玲子は軽くため息をついた。警察がまだ何を聞きたいというのだろう? もう既に同じ話を何度も繰り返しているというのに。   だが、このまま帰すわけにもいかない。玲子は男を自宅に通すことにした。   刑事はリビングに案内されると、ゆっくりとソファに腰かけた。男は冴木と名乗った。 「新しい刑事さんですね。何か事件に進展でもあったんですか?」玲子は立ったまま、冴木を見下ろすように訊いた。 「いえ、進展があったわけではないんですがね。ただ、ちょっとお話をうかがいたくて来ました」 「もう別の刑事さんに何度も話したんですけどね」玲子は不満そうな表情を浮かべた。 「ええまあ。ですが、色々話しているうちに新しい手がかりが出てくるんじゃないかと思いましてね」 「そうですか。私に聞いても仕方ないと思いますが……」 「えーと、ご主人が殺されたのは、だいたい半年前。山林の近くで銃撃されたんですよね」冴木は頭を掻きながら言った。 「そうです。知らせを受けた時には、大変なショックでしたよ」 「胸部を三発撃たれていた。現場には拳銃は残されていなかった。犯人が持ち帰ったようだと」 「そう聞いていますね」 「ご主人はどんな方だったんですか?」 「仕事は貿易業を営んでいました。自分で会社を経営していたんです。性格も穏和でしたわ」 「率直に言って、どう思われてます? 今回の件について何かお考えでも?」冴木が訊いた。 「主人は何か事件に巻き込まれたんだと思いますね」玲子は答えた。 「でもご主人は三発も撃たれています。強い殺意が感じられますね。巻き込まれただけにしてはおかしくはないでしょうか」 「そうかしら。私はありうると思いますが」 「誰がご主人のことを殺したのか、心当たりでも?」 「銃で撃たれているんですから、プロの犯罪者の仕業に決まってますわね」 「ええまあ、そう見えますね」 「もちろん、あの宝石強盗事件と関係があるんですよ。あの事件の犯人が主人を殺したんだわ。なぜかは知りませんが、主人は事件に巻き込まれてしまったんですよ」 「なるほど、例の強盗事件のね。ご主人はあくまでも被害者だと言いたいわけですね。でも、ご主人は事件に巻き込まれたのではなく、あの強盗事件のグループの一人だったという見方もありますよね。犯人同士で仲間割れをしたんじゃないかとね。この考えについてはどう思います? ご主人の性格から見てありうると思いますか?」 「えーと、それは……」  質問を受けているうちに、玲子の頭に過去の記憶が呼び起こされる。  例の強盗事件……。玲子はあの事件のことを思い返していた。  最初に事件のことを知ったのは、テレビのニュース番組でだった。今では下火になっているが、当時は事件のことが大々的に報じられていたものだ。あのときはまさか自分が事件に関わることになるとはまるで思わなかったが。  事件が起きたのは、半年ほど前のことだ。代官山にある宝石店に、黒いスキーマスクをかぶった二人組が現れた。  犯人の一人は銃を所持していて、店内で発砲して店員と客を威嚇した。怯える被害者たちを尻目に、犯人たちはガラスケースを割り、中に入っていた宝石を三十点近く手際よく奪い、所持していたバッグに詰めていった。その被害金額は一億円以上にものぼると言われている。  間もなく犯人たちは店外に出ると、近くに停車していた車に乗りこんで逃走した。二人組の他に、もう一人運転手役がいて、いつでも出発できるように準備していたようだ。  その後すぐに通報がされ、警察の捜査が始まった。だが、犯人らは覆面をしていた上に厚手のジャンパーを着ていたため、警察は犯人らの特徴がつかめず、店内の防犯カメラの映像を見ても犯人らの身元を特定することはできなかった。  警察は街頭の防犯カメラの映像をたどって、犯人らが乗っていた車の足取りを追跡しようとしたが、これもうまくいかなかった。事件から数日後、千葉県の河川敷で、逃走に使用された車が焼け焦げた状態で発見された。盗難車で、犯人に結びつくようなものは何も見つからなかった。  こうして、宝石強盗事件の捜査は頓挫することになった。  ところがその後、事件は思わぬ展開を見せる。宝石強盗事件につながる別の事件が発生したのだ。ひと気のない山林の近くの路上で、男が死亡しているのが発見された。男は胸部を銃で撃たれていた。現場に凶器となる拳銃は残されておらず、明らかに殺害されたものと言えた。  現場に残っていた銃弾の線条痕を照合したところ、予想外のことが分かった。宝石強盗の事件の現場に残されていた銃弾の線条痕と一致したのだ。これで宝石強盗事件と今回の銃撃事件がつながった。おそらく宝石強盗事件の犯人がこの男を殺害したのにちがいない。警察はそう憶測した。  銃弾で殺害された男は身分証を所持していたので、すぐに身元が分かった。峰岸章という小さな貿易会社を経営している人物だった。これが玲子の夫だ。  すぐに峰岸章の身辺について調査が進められた。どうやら借金があり、金に困っていたらしい。前科もあり、過去に密輸事件に関わっていたこともあるようだ。  峰岸は事件に巻き込まれて殺されたというよりも、むしろ、峰岸自身が宝石強盗事件の犯人のうちの一人で、仲間割れして殺されたのではないかというのが、警察の見立てだった。おそらく奪った宝石の分け前のことでもめたのではないか。  さらに、峰岸の身辺を当たっているうちに、もう一人怪しい人物が浮上した。牛島唯人という男だ。峰岸と行動を共にすることが多く、過去の密輸事件でも共犯関係にあった。  警察はさっそく牛島の自宅を訪ねて事情を訊こうとした。だが、牛島の話を聞くことはできなかった。牛島が自宅内でナイフのようなもので複数回にわたって刺されて殺されているのが発見されたのだ。  こうして事件に関係していると思われる二人の人物が殺害された。峰岸と牛島が強盗事件の犯人だったとすると、三人組の残る一人が二人を殺害した可能性が濃厚だった。盗まれた宝石も峰岸と牛島の身辺からは発見されなかったので、おそらく、残る犯人が持ち逃げしたのだろうと警察は推測していた。  だが、最後の一人の人物がどんな人物なのか、まるで見当がつかなかった。その行方も杳として知れず、宝石とともにかき消えてしまった……。 「警察が主人を宝石強盗の一人だと考えているのは知っていますよ。私はそうは思いたくはありませんが。でも、たとえそうだったとしても、私に聞かれても困りますよ。私は主人に前科があったことも初めて聞きましたし。大変なショックだったんですから」玲子は言った。 「ご主人から宝石のことを何か聞いていませんでしたか。もしご主人が犯人の一人だったとすると、気の許せるあなたになら何かちらっとでも話したんじゃないかと思いますがね」冴木は尋ねた。 「いえ、まったく。何も聞いていませんよ」 「何か気になる出来事はありませんでしたか。たとえば、普段は見かけないバッグを持っていたとか。何かを隠しているそぶりがあったとか」 「さあ、ありませんね。警察も家の中を調べていましたが、何も出てきませんでしたし」  「貸金庫の鍵のようなものもお持ちではなかったですか」 「それもないですね。何か知っていればとっくに警察に話していますよ。刑事さん、これは一体どういう調査なんでしょうね。私に何かを聞いても仕方がないと思いますけど。だって、三人組の残りの一人が宝石を独り占めして逃げたんでしょう? その犯人を捕まえればいいのではないですか」 「ええまあ、そういう見方もできますね。でも、私は別の見方はできないものかと考えていましてね。実は今日おうかがいしたのも、その可能性についてあなたにお聞きしたいからで」冴木は静かに言った。 「どういうことです?」玲子は困惑したように言った。 「宝石を独り占めしようとしていたのは、その男ではなく、むしろあなたのご主人だったのではないかという可能性です」  玲子はそれを聞いて息をのんだ。 「まさか。そんなはずはありませんわ」 「警察はあらゆる可能性を検討しなければならないのですよ。今の段階ではその可能性も排除できないのでね」 「でも主人は殺されたんですよ。犯人のはずはありませんよ」 「それなんですがね。本当にご主人は死んだのでしょうか。実はまだ生きているという可能性はないでしょうか」 「おかしなことをおっしゃるんですね。私が主人の遺体を確認したんですよ。あれは主人に間違いありませんでしたわ」玲子は腹立たしげに言った。 「そこですよ。あなたが証言すれば、誰も遺体がご主人以外の人物だとは疑わない」 「どういうことです?」 「こういう可能性は考えられないでしょうか。殺されたのはご主人だったのではなく、誰か別の人物だったのではないかと。ご主人が誰か自分に似た別の死体を用意して、自分が死んだように見せかけた。例えば、ホームレスとか急にいなくなっても気づかれないような人を殺害してね。つまり、ご主人はまだどこかで生きていて、宝石を持ったまま逃げている……」 「ありえませんよ。なんで主人がそんな手の込んだことをするんです? なんのメリットもないじゃありませんか」玲子は苦笑した。 「仲間から逃げるためですよ。ご主人は宝石の入ったバッグを持ち逃げしたとしましょう。他の二人は当然ご主人に分け前を寄こせと言ってくるはずだ。でも、ご主人は渡す気はなかった。自分が死んだように装えば、仲間からの追及を逃れることができる」 「その計画に私が加担したっていうんですか? 考えられないですね」玲子は憮然として言った。 「しかし、あなたは何かを知っているはずだ。私はそう考えています」 「随分確信がおありなんですね。一体どういう根拠で……」玲子は戸惑った目つきで冴木を見た。  冴木の眼は不気味に輝いていた。 「私は知ってるんですよ。まだ誰も知らない事実をね」  玲子ははっとしたように目を見開いた。 「あなたは一体誰なの……。まさか、あなた……。本当に警察の人?」玲子は叫んだ。 「そう、私は警察の人間ではない。もうお分かりでしょう? 私が誰なのか」冴木は挑戦的な響きで言った。 「宝石強盗の犯人! 生き残った最後の一人!」玲子はあとずさって、壁際の棚に背中を押しあてた。 「ご名答。私は強盗事件の犯人だ。そして、あなたのご主人の仲間でもある」 「出て行ってちょうだい。ここには何もないわよ」  冴木はソファから立ち上がった。 「いや、まだ出て行くわけにはいかない。あなたから話を聞くまではね」 「どうして私のところなんかに……」 「真相を知りたいからですよ。あなたは何か知っているはずだ」  玲子はテーブルの上に置かれた携帯電話をちらっと見た。 「おっと、余計なことはしない方がいいですよ、奥さん」そう言って、冴木はポケットからナイフを取り出した。「こういうものがあるのでね。なあに、ちゃんとほしい情報をくれさえすれば、危害を加えたりはしない。死にたくなければそこにじっとしてるんですね」 「渡す情報なんか何もないわよ。何度も言ってるでしょう」玲子は悲痛な声をあげた。 「そうは思わないな。いいですか、警察は私があなたのご主人を殺したと思ってる。それで宝石を独り占めしたんだとね。ですがね、奥さん。私はあなたのご主人を殺しちゃいないよ。宝石も持っていないし。それは自分が一番よくわかっているんだ」 「じゃあ、誰が主人を殺したっていうのよ」 「それを調べに来たんですよ。あなたなら何か情報を持ってるんじゃないかと思ってね」 「あなたが犯人じゃないのなら、そうよ。もう一人の男だわ。あの牛島っていう。あの人が宝石を持って行ったのよ。きっとそうに違いないわ」  「違うと思いますね。いいですか、事件の後、宝石の入ったバッグを奪ったのはあなたの主人なんだ。あいつめ、隙をついてバッグをすり替えてやがった。気づいた時にはあいつの姿はなかったんだ」 「そうだとしても、牛島が主人を殺して宝石を奪って逃げたのかもしれないじゃないの」 「それも違うと思いますよ。あなたの主人が殺された後、私は牛島のところに行って真相を確かめに行ったんだ。このナイフで散々脅してね、あいつは怯えて洗いざらいしゃべったよ。でも、あいつは宝石を持っていないと言っていた。実は牛島は臆病な奴でね、もし本当にあいつが宝石を持っていたらとっくに白状していたと思うね。脅しが過ぎて、とうとう死んでしまったが……」冴木はおかしそうに笑った。 「あなたが牛島を殺したのね!」 「そうだよ。あんたも殺されないようにせいぜい気をつけるんだな」 「なんてひどい男。でも、犯人があなたでもなく、牛島でもないとしたら、誰が犯人だっていうの?」 「だから、あなたの主人は殺されていない。まだ生きているというのが私の考えだって言ったじゃないか」 「そんな馬鹿な話はありえないわ。私は牛島が犯人だと思うわ。牛島が宝石を持っていたのに、あなたが殺してしまったのよ。もう真相は分からないわ」 「牛島が犯人ではないことには確信があるのでね」 「確信? あなたの勘なんて信用できないわね。でも、これじゃあまるで平行線よ。もうこれ以上話を続けても意味ないんじゃないかしら。これからどうするつもりなの?」 「そういうことなら、あなたに無理にでも話してもらうしかない」冴木が握っているナイフがきらりと光った。「こいつを使ってね」 「どうしても出て行かないつもりなの?」 「いいですか、奥さん。私はもう既に一人殺してるんだ。あと一人死体が増えたからって、何かが変わるわけじゃない」  すると、玲子は突然発作でも起きたかのように笑いはじめた。しゃくりあげて身をよじって笑いつづけた。 「何を笑ってるんだ? とうとう気がふれたのか」冴木は戸惑った。 「あなたって、面白いこと言うのね。主人がまだ生きてるだなんて。そんな馬鹿なことがあるわけないじゃないの」 「何がおかしい?」 「おかしいわよ。あなた何もわかってないのね。主人が生きてるなんて的外れもいいとこ」 「どういうことだ」 「私は犯人を知ってるってことよ。だって、主人を殺したのは私なんだもの」 「えっ?」冴木は唖然とした表情を浮かべた。 玲子はいつの間に手に拳銃を握りしめていた。銃口を冴木にまっすぐ向けた。 「おい、どうしてそんなものを……」冴木は焦ったように言った。 「動かないで。余計な真似をしたら撃つわよ。さあ、そのナイフから手を放しなさい。こっちの方に蹴るのよ」 「分かったから。撃たないでくれ」冴木はためらいがちにナイフを床に落とした。それから玲子の方にナイフを蹴って渡した。「どういうことなんだ。なんであんたが峰岸を殺したんだ」 「もちろん宝石のために決まってるじゃないの。主人が宝石を独り占めしようとしていたのはたしかよ。あの強盗事件の日の後、あの人は家に帰ってきて私にバッグを見せたわ。中には宝石がたくさん入ってた。あの人は私に言ったわ。これを持って一緒に海外に逃亡しようってね。これだけあれば、贅沢に暮らせるはずだって。でも、私はそんな気には全くなれなかったわ。海外で逃亡生活なんてご免よ。あの人が強盗犯人なのを警察がつかんだら、私まで共犯にされかねない。私はもっといい方法を思いついたのよ。つまり、あの人を殺して、私が宝石を独り占めすればいいってね。だって、誰も私のことなんか疑わないでしょう。本当に強盗事件に関わっていなかったんだもの。宝石のバッグの中には拳銃も入っていたわ。それを使えば、強盗の犯人同士で仲間割れしたように見せかけることができる。それで私は口実を使ってあの人をひと気のない山林まで行かせて、こっそり持ち出した銃を使って殺したの」 「なんて恐ろしい女だ!」冴木は叫んだ。 「問題はあなたとあの牛島っていう男だった。せっかく危険を冒して手に入れた宝石を、簡単に諦めるはずないものね。きっといつか私のところにやってくるだろうと思ったわ。でも、その後、思わぬ朗報があったわ。牛島が死んだのよ。あなたが殺してくれたのよねえ。おかげで、対処すべき問題はあなた一人になった」 「俺が来るのを予測していたのか。なんで逃げなかったんだ」 「おかしな動きをしたら、警察に疑われてしまうからよ。それに私の計画を成功させるにはあなたは邪魔な存在。あなたを消す必要がある……」 「最初から俺を殺すつもりだったのか!」 「あなたが諦めて帰っていれば、見逃してあげてたかもね。でも、あなたは私から情報をとるまで帰ろうとしなかった。だから、殺すしかなくなったのよ」 「俺を殺したらあんたは殺人罪で捕まるんだぞ」 「そうかしら。そうは思わないわ。私はこういう言い訳をするつもりよ。あなたが突然家に押し入ってきて、この拳銃で私を脅した。私は隙を見て拳銃を奪おうとしてもみ合いになった。そのうちに拳銃が発射されてしまい、あなたに当たった。つまり、正当防衛ってことになるわね」 「すべて計画済みってわけか」冴木は顔を引きつらせた。 「警察のふりをしたり、突飛な説を披露したり、本当に面白い人ねえ。おかげで楽しい時間を過ごさせてもらったわ。でももうこれでおしまい。ゲームセットよ」  玲子は拳銃を持ったまま冴木の方に近づいていった。その顔には勝ち誇ったような表情が張りついていた。   
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