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「飛べない鳥は不幸でしょうか」
濡れた石造の床をモップで拭いながら、こともなげに呟いた。室内は暗い。唯一ある天窓の光だけが、暗闇から輪郭を浮き上がらせる。
「君は変な事を言うなぁ」
随分小さな呟きだったので聞こえないかと思ったけど、彼女にはちゃんと届いていたらしい。
彼女は浴槽から腕を出し、水が滴る髪をかき上げる。
「初めから飛ぶ事を知らなければ、特段不幸じゃないんじゃない? どこかの国には、飛べない鳥もいるんだろ。そいつは代わりに泳げるみたいだけど」
彼女の髪から飛び散った水滴をモップで拭いた。私になんて構わずに彼女は動く。その度に床が濡れるので一向にキレイにならない。
けれど、これが私の仕事なのだから、彼女に文句を言うつもりはなかった。
「そうでしょうか」
「そうさ。少なくとも、鳥は自分を不幸だなんて思っちゃいないよ。その鳥にとって飛べない事は、当たり前の事なんだから。当たり前の事ができなくたって、悲しくもなんともないさ」
カラカラと彼女は笑う。
私はなんとなく彼女の笑顔を真っ直ぐに見れなくて、ふいっと視線を床へ落とした。
すると、床の石と石の間でキラリと光るものがある。拾ってみると、それはボタン程の大きさの鱗だった。
これは彼女のものだ。
今までまじまじと見たことはなかったけれど、玉虫色に輝くそれはとても美しい。
鱗に魅入っていた私は、彼女の尾鰭がぴしゃんと跳ねる音に我に返った。
「どうかした?」
「いえ、鱗が落ちていたもので」
「あぁ汚してすまない。捨てておいてくれ」
彼女は手をヒラヒラさせて言った。
でも、こんなにキレイなのに、捨てるなんてもったいない。聞いた話だと、高値で売り買いされる事もあるのではなかったか。
彼女は自分がどれほど希少な存在なのか知らない。そればかりか、自分の種族の事だって知らない。
彼女は人魚だ。本当なら海にいるはずなのに、この狭い地下室で暮らしている。
卵の時からここで飼われている彼女は、海に行った事もなければ、海そのものを知らない。
私が世話係になってから、彼女が外へ出たところを見た事はなかった。
彼女は自分を不幸だなんて思っていないだろう。そもそも海を知らないのだから。
海を知らない人魚。
このまま何も知らない方がいいのか。それとも知った方がいいのか。
答えはどこにもなかった。
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