壁の向こう

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そもそもが、職場の飲み会の際に、仕事のミスで落ち込んだ私がヤケ酒に溺れて無様に酔い潰れた時、私を馬鹿にしていた他の連中が無視して帰ろうとしていた中、私をこのマンションまで彼が送ってくれたことがきっかけで始まった“恋”。 いや、恋ではないな。 不適切な関係だ。 送り届けてもらったその夜。 そうすることが当然のように、どちらともなくベッドを共にし、求め合った。 そしてそれは、大前提として、どこにでもあるような一夜の間違いのはずだった。 事実、その夜彼が帰る際、私自身が彼に「まあ犬に噛まれたとでも思って忘れるよ」とすら言った。 でもその後、二人の関係はそうはならなかった。 いや、私自身の意思でそうしなかった。 その後もズルズルと関係が続いているのは、ひとえに私の意思だ。 男社会で肩肘張って疲れ果てた私の心に空いていた大きな穴を、彼という存在が優しく埋めてくれることに気がついてしまったから。 嫉妬や誹謗中傷、男尊女卑の職場環境に晒され、疲弊した心を癒してくれるのは、田原くんのと短い逢瀬で交わされる“偽物の愛”のやりとりしかなかったから。 --- 彼は私のことをどう思っているのだろう。 私は、自分にそんな資格はないと分かっていながら、“お花畑”感満載で独りよがりな幸せな未来を想像したことが、ない訳ではない。 でもおそらく彼は、私との未来なんて考えてないだろうし、想像すらしていないはずだ。 彼は私と一緒にいる時はもちろん、ベッドの中で物理的に繋がっている時でさえ、私に対して「好きだ」とか「愛してる」とかの、出まかせの愛の言葉は決して言わない。 私自身過去にワンナイトで好きでもない男性と体を重ねたことくらいはある。そんな愛も未来もない何処の馬の骨かも分からんヤツですら、そしてそんなヤツに抱かれている私ですら、その場の気分で“愛してる”と口にしていた。 でも、田原くんは、その言葉を絶対に言わない。 代わりに彼が果てる時に、“絵梨…、絵梨…”と私の名前を口にするだけだ。 彼が強い意志を持ってその言葉を口にしないのは、私たちの関係はあくまでもカラダだけの関係だという、彼なりの意思表示なんだろう。
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