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翌日。
私はスマホの中の彼の電話番号を表示したまま、既に何分も固まっていた。
このことを聞けるとしたら、彼だけだ。
もしかしたら、昨日は酔っていてそう思っただけで、ただの見間違いかもしれないし、記憶が曖昧となった今となっては、そもそもあれがキスマークだったのかすら怪しい。
私は悩んだ挙句、聞けば心の負担も軽くなれるかもしれないと、勇気を振り絞って彼に電話をかけた。
「もしもし?山田です」
平静を装って事務的に話しかける。
「お久しぶり。会社では毎日顔を合わせてるのに、話しをするのは本当に久しぶりだね」
彼は以前と変わらない砕けた感じで応じる。
「で、今更なに?山田マネージャーさん?」
彼はからかうように質問してきた。
私は、自分で電話をかけたくせに何も喋れなくなった。
一体どう聞けばいいんだろう。
「もしかして、オレに聞きたいことがあったんじゃない?夫婦上手く行ってんのか、とか、また新たに誰かと不倫してるんじゃないかとか、さ」
なにも言えなく私に、そう言って彼は笑う。
聞けない私を見透かしたかのように。
「言わないよ。君も今苦しんでるんだろ?
で、『関係ないよ』って言ってもらって楽になりたいからオレに電話してきたんだろ?
あんたも苦しんだらいいよ」
図星だった。
何もいえなくなった私に、田原くんは畳みかける。
「知りたくなかったんだよなあ。
サレ男の悲哀とかさ。
全く笑えないんだよ。
“托卵”っていうんだっけ?
全く身に覚えないし、絶対違うって自信があるのに、久しぶりにナマでさせられたと思ったら、奥さんが何故か妊娠してるって、想像してみ?
それに気づいて以降、オレはアンタだけが心の拠り所だったんだ。
なのに…、なのに。
分かる?アンタという心の拠り所を失ったオレが今どれだけ苦しんでいるか。
心の拠り所だった相手にフラれ、しかもその相手が今では仕事でもオレを追い抜いて社内で活躍している状況を、素直に楽しめてると思う?」
衝撃の告白に、私は怖くなり、本当になにも言えなくなった。
私の電話越しの呼吸が震えているのが伝わったのか、長い沈黙の後、彼が急に口調を変えておどけた。
「なーんてね。冗談だよ。冗談。
全部作り話さ。
アンタがちょっと調子に乗ってそうだったから、からかっただけ」
そう言って笑うと、「それじゃ。もう電話かけてこないでね山田マネージャーさん」と言って、一方的に電話を切られた。
田原くんの言ったことが、ウソかホントかは分からない。
いや、そんなことはどっちでもいい。
ただただ、怖かった。
スマホを持つ手をだらんと下げたまま固まった私は、この不倫の代償という得体の知れない恐怖をこの先ずっと抱えていかなければならないことを、ようやく悟った。
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