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「はい。残念ですけど、今回はそう言うことで。
今後とも宜しくお願いします」
アルプス興産の藤野さんから、突然会社に私宛の電話がかかってきた。
すでにあの案件は私の手を離れているので、なんの用事だろうかと訝しがりながら回されてきた電話に出ると、私の考えたキャッチコピー、『帰りたい場所がある幸せ』をアルプス興産の社長がいたく気に入り、考えた私に会いたいと言っているとの、会食のお誘いだった。
丁寧に辞退させてもらい、反対にお礼を伝えていただくよう託ける。
お礼を言いたいのはこっちの方なのに。
私は電話を切り、デスクの前の山積みになった書類に向きあった。
ありがたいことにアルプス興産の仕事以来、木下部長から振られる仕事は膨大に増えた。
デスクに置かれたままの冷たくなったコーヒーを飲み干すと、坂口がタイミングよく淹れたてのコーヒーを持って来てくれた。
「あ、ありがとう。いつも悪いね」
「いえいえ、私が好きでやってることですから」
そう言って坂口は笑った。
結局、あれ以来、坂口に真相は聞けずじまいだ。
ただ、聞いたとして、正直に打ち明けられても素直に受け入れられる自信もない。
そもそも。
あの日電話で田原くんに言われた一言が鋭利な刃物のように心に刺さったままで、聞くこと自体が躊躇われている。
『否定してもらって、自分が楽になりたいだけなんじゃないの?』
あの日、彼に、そう言われた。
本当にその通りだ。
坂口は本当は何も知らないかも知らない。
知ってたとしたら、今でも私と何事なかったかのように接する事ができる彼女は演技賞モノの名優だし、それならば彼とのことを聞いたとしても恐らく躊躇いなく「違います」と否定するだろう。
不倫をしていることを肯定するメリットはないし、ましてや、聞いている私は彼女の人事考課をする上司だ。
田原くんのかつての不倫相手でもある上司の私に、当てつけで不倫する動機は、彼女には恐らく、ない。
動機があるとすると、田原くんの方だろう。
ただ、あの日彼が電話で言った奥さんのこと。
あの話が本当だったとしたら…。
自分は何のために働いているのか。
彼はずっと悩み、苦しみ続けているのかもしれない。
私には彼を非難する資格は全くない。許されるなら、違った形で彼の力になってあげたいとすら思う。
でも今は、彼は私に社内で会っても、不自然さを感じさせない程度に、絶妙に距離を保っている。
仕事上でも会話する事が無いよう、上手に自分の仕事をコントロールし、それでいて成果は上げ続けている。
さすが若手のエースだ。
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