第一部

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第一部

 ずっと、頑張っていればいつかは報われるということを信じて生きてきた。 苦しいのは今だけ、今だけ…。そうやって自分を騙していた。でも、もうそんなこと信じない。あんなのはただの自分騙しに過ぎないことなんて、最初からわかっていたのに。  急ぐように一歩ずつ進んでいくたびに、少しずつ水に浸かっていく体。濡れた青い着なれたジーンズが鬱陶しいほど水を含み、重くなっていく。  時刻、夜の10時。人々が寝静まっていない、まだ活動しているであろう頃。俺は7歳になったばかりの弟を抱いて、2人で海で自殺しようとしていた。弟には同意をとっていない。そんなこと、できなかった。  別に、いいよな?このまま生きてたって、一生クソみたいなヤクザと借金に追われてキツい低給料の仕事だけの生活を送るくらいなら、先に終わらしておく方がお前にとってもいいだろ。最低な兄でごめん。そう口の中でつぶやいた。  俺の唯一の未練も、今は腕の中にあるから。  波がが俺に抵抗して大きく揺さぶられ、俺の首に巻きついて顔を伏せている弟が少し呻き声を上げた。さっき海に入ったというのに、いつのまにか海面が腹のへそほどまできている。真っ暗で周りが見えない。でも、水の異常な冷たさと針のように鋭い風が痛いほどこの状況を俺に示させているようで、一度立ち止まった。  心が酷く重くなった気がする。心臓の裏の、謎の異物感。とても心臓が痛くて、張り詰めいてる。その時だった。 「捕まえた」  もう少し…そうして足を進めようとしていたときに、アイツに捕まったんだ。シャツの背中を大きな手で掴まれて、重心がブレてバランスが不安定になった。驚いて後ろを向けばそいつが不敵に笑っていた。今にも波しぶきが俺と弟を連れ去ってしまいそうなほどの荒々しい海に、そいつは現れたのだ。  まるで時が止まったような感覚に見舞われた。コマ送りで描写が進んでゆく。  アルファ特有の超人的な力で、俺を浜まで引きずっていくが、波と水の抵抗でなかなか抗えない俺はそいつに引きずられたまま何もできなかった。引っ張られるたびに足が砂に埋まって動きづらい…。  浜に半ば投げやりに俺の体をふり投げたそいつは、自分の濡れたシャツを絞っている。周りに人が少し集まっており、スーツを着た人や、コイツと同じような服装の人間が数人いた。  ヤクザに捕まってしまった。そう意識して、さらにどん底に落とされた気分だった。あぁ、目の前が真っ暗だ…。このまま死んだっておかしくない。俺は、先ほど自殺しようとしていたことを忘れ、その寒さと恐怖に震えた。びちょびちょのズボンのことなんて、すでに頭になかった。 「魚の餌にするにはもったいない餌だな。命拾いしたと思えよ」  そう言って、またニヒルな笑みを浮かべた。嘲笑。人のことを見下ろしていて、あからさまにバカにされているような笑みだ。放心状態でいると、ベージュの髪をしたそいつに俺の腕の中にいた弟が奪い取られた。 「よしよしも〜大丈夫だからな、ほら、怖かったなー」  そいつは宥めるようにして抱き抱えたが、いきなりでびっくりしたのかもともと泣き虫の弟は大声をあげて泣き出した。  しばらくそんな状況で動けなかったのだが、弟がそいつに一発顔面パンチをしたので弟は俺の腕に戻された。ヤクザの口から「もう大丈夫」だなんて、信用できるわけがないし、これからのことを思って、ついに冷や汗を流した。まさに生きてる未来が見えない、まさにそんな状況。 「にしても、借金もっといて罪のない弟と心中とか、マジで救えないクズだよな」  服を整えてまた気ダルげにそう言う。最悪だ。俺にどうしろってんだよ…。ここでやっと後悔して、後々に対し申し訳ないと思ったんだ。こんなヤクザの言葉で、こんなに後悔するとは。恥ずかしさに似たような屈辱で頭がいっぱいだった。本当に頭の中がいっぱいいっぱいで、脳の回転がひどく遅く感じる。もうほとんど目がはっきり見えていなくて、ぼんやりとして視界が歪む。弟は俺の腕の中に戻るとすぐ泣き止み、また俺の首に手を回した。 (どこかのタイミングで逃げないと…) 「まぁかと言ってお前に罪があるってわけじゃないがな」  そういうと、砂浜に座り込んでいる俺に目線が合うようにしゃがみ、部下と思われし人からライターの火を受け取ってタバコを吸い始めた。 「ちょっとこいよ」  そういうと俺の腕を掴み立ち上がらせ、近くに停めてあったワゴンに弟ごと詰め込んだ。運転席にはすでにスーツを着た先ほどの人が座っていて、助手席は無人だった。奥にそいつ、真ん中に俺、手前側に弟が座る。そいつは車からほんの少し離れると、新しい白いシャツに新しい白のズボンに着替えてきた。そいつの新品で乾いている服に対して、俺の服はびちゃびちゃだった。  されるがまま、何も抵抗できない事をいいことにまた余裕そうにタバコを吸い始めると車が動き出す。ひたすら無言。そもそも今喋る元気なんてなかった。手が小刻みに震える。  しばらくしているうちにどこかで止まるといきなりドアが開けられ、横にちょこんと座っていた弟が知らない高身長の女に抱き上げられた。つかの間だった。さっきまで手に巻きつき、俺の方をチラチラ見上げながら隣に座っていたのに。  反射的に体を外に出そうとし手を伸ばしたが、そのままドアが閉められる。車のドアを開けようにも、運転席のスーツの男が車にロックをかけたようで、開かない。 「ちょっと、弟は…!」 「待てよ、大人同士で話すことがあるだろ?この後無傷な弟と会えるか、もう一生会えないかはお前次第だぜ?」  開けられないと悟り、左側にいたそいつに訴えたが、とりあえず弟と少し離されるのは確定のようだ。もしかしたら弟が暴行されるかもしれない。最悪、未成年淫行を受けるかもしれない…。心臓が変な音をたてた。  そもそも、コイツがヤクザという時点で俺は何もできない。選択肢はない。少なくとも、自殺という解決はもう無理そうだ。ほんと、何もかもが嫌になってくる。今からどうすればいいんだ、これから住むところは?借金は…?蒼は…?  俺は、あまりにも酷い現状に現実逃避をするために目を閉じることしかできなかった。
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