さよならの準備のために

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 鼻の奥がざらつくような気がするのは、磯の匂いのせいだ。砂と潮と死んだ魚や海藻なんかが溶けて混ざって、この独特の匂いとなっているのだろう。  そんな考えが頭に浮かび僕は眉間を寄せた。 「どうしたの?」  砂浜に屈み込んでいた祖母が、訝しげな顔を向けてくる。僕は首を振り何でもないと伝えた。祖母は特に気にした風もなく、手元へ視線を落とす。手には瓶があった。  ここは船着場の脇の砂浜である。瓶は観光客が捨てたゴミ……ではない。確かに空き缶や菓子の袋が転がってはいるが、これは違う。瓶には中身が入っている。液体ではない。紙だ。  瓶はボトルメールだった。祖母は慣れた手つきで栓を開けると手紙を取り出す。 「まあ」  お爺ちゃんたら、と嬉しそうに溢した。祖母は差出人が祖父だと思っている。  でも、それはありえない事だ。何故なら祖父は既にこの世にいないのだから。  今はもう覚えていないような些細な事で、二人は喧嘩になった。家で居心地が悪くなった時、祖父は決まって釣りに出かける。この日も道具を持って海へ向かった。  いつもと違ったのは祖父が帰って来なかった事。船から海に転落したのだと、一緒に釣りをしていた人が教えてくれた。  葬儀が済んで暫く経っても、祖母は消沈したままだった。ある日、祖母が海に散歩へ行こうとした。心配だった僕は祖母に着いて行った。 「あの人はね、あまり魚は好きじゃなかったの。だけど、あたしの好物だから喧嘩をすると釣りに行くのね」  仲直りの合図なの、分かりにくいでしょう、という穏やかな声に胸が詰まる。  それから祖母はよく海へ足を運ぶようになり、僕は毎回同行した。 「これ何だろう」  そう言って砂浜に転がる瓶を持ち上げたのは僕だった。栓を開けた僕は、こちらを窺う祖母に中身を渡す。  最初は不思議そうにしていた祖母だったが、手紙を読んでいくと目を見開いていく。 「あの人だわ」  手紙には簡素にごめんとだけあり、あの人らしいと祖母は笑った。  ボトルメールは時々落ちていた。  瓶を見つける度に、祖母は大事そうに拾い上げ、ゆっくり、ゆっくり手紙を読んだ。  今日も瓶はあった。  でも、差出人は祖父じゃない。祖母は目が悪いから気が付かないけど、父や母が見たらバレてしまう。祖父と僕の字は全く似ていないのだから。  けれど、もう暫く、せめて祖母が海に来なくなるまで、僕は続けようと思う。
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