チャイと革靴とキスの場所

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 軽やかなドアのベルに続いて、足音が狭い店内に響いた。コツコツという音に、私はページを繰る手を止める。その足音は、彼愛用の革靴のものだ。すっかり耳に馴染んでしまっているので、すぐに分かった。  小気味良いその音はしっかりと私の耳に届く。この喫茶店のご主人が毎日磨いている床のせいだろうか。キャラメル色の板は、まるで飴でコーティングしたようにピカピカだった。  足音はゆっくりとカウンターの私の元へ近付いてくる。隣のイスがズズズと鳴るのと同時に、私は雑誌を閉じた。  隣のイスへ顔を向ければ、やはり見慣れた革靴が行儀良く並んでいる。床に負けず劣らずキレイに磨かれた革靴から、視線を上げていく。それから、顔がある辺りで、私の視線は彷徨った。  知り合ってから随分経つけれど、未だに彼の顔を覚えられていない。私の記憶力が悪いとか、彼が覚えにくい平凡な顔をしているだとかが理由ではない。まあ、私は人の顔や名前を覚えるのは苦手なのだけれど、彼についてはそれではなくて。  そもそも覚えるべき顔がないのだ。  私は本来だったら頭があるであろう位置に向かって、ニコッと笑いかける。 「こんにちは、空知さん」  姿形が見えない彼は、それでも上機嫌だと伝わってくる明るい声で「やあ、酒井さん」と言った。 「……これは生姜かな」  少し間が空いて空知さんが訊ねる。きっと漂うカップの香りを嗅いだのだろう。 「そう。ジンジャーとシナモン入りのチャイ」  雑誌に夢中で放置されていたカップを手に取り、ひと口含む。ふむ。すっかり(ぬる)くなってしまった。 「へえ! そんなメニューがあったとは知らなかった」  そう言うやいなやカウンターの向こうのご主人へ同じものを注文する。声だけが聞こえるのだから、普通の人なら面食らうだろうけど、ご主人は慣れたもの。時を置かずしてチャイが出された。 「ありがとう」  ふいに湯気が昇るカップが宙に浮く。私の目の高さ辺りまでくると、少しだけ傾いた。すると、中を満たしていたチャイが床に溢れる……なんてことはなく、中身はこぷこぷと空中へ消えてしまった。 「おいしい!」  空知さんは感嘆の声を上げる。 「実に僕好みの味だよ! なんてことだ。この喫茶店に通い出して久しいというのに、全く知らなかったなんて! 僕は大変な損をしていた」  随分大袈裟な物言いである。けど、これが彼の通常運行だ。空知さんは大抵ちょっとオーバーなリアクションをとる。透明人間の彼には『顔』がない。表情で気持ちを伝えられないから、言葉で表しているんじゃないかな、と思っている。
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