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飛鳥
「たのもうー!!!」
まるで道場破りかと思うほどの馬鹿でかい声で、変な挨拶を玄関先で張りあげている女が、ある日ひとりでやってきた。
斎はいつものように返事もせず、不在を決め込む事にして再びこころ静かに墨を磨りはじめた。
しばらく大声が続いていたが、諦めたようでまた静寂が十八畳もある板敷の和室に訪れた。障子を開け放てば、その先にある美しい枯山水と樹々が拡がる山々をも背景とした、祖父自慢の見事な庭が見渡せるのだが。
斎は、障子越しの柔らかな光を好んでいた。
さて、そろそろかと墨をそろりと置く。硯の陸で磨った墨が自然に海に落ちて、何とも言えない墨の良い香りがふっと立つ。至福の時である。
この古墨は、長谷川家に代々伝わる乾隆御墨と言われる唐墨の一種だが、和墨と違い割れやすく繊細で、磨るのが難しい。今日のような淡墨となれば、更に細心の配慮が必要となる。
しかし斎は、この難しい墨を産み出す瞬間が何より好きなのであった。何人にも邪魔をされる事なくこの時を愉しむために、ひとり暮らしなど取るに足らない事柄である。
「あ!こんな所にいらした!!」
そんな斎の至福の時を、この馬鹿女は呆気なく踏みにじったのだった。
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