わたしの人生で一番パニックになった瞬間は……

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「映画に初主演されるカエデさんへの質問です」 わたしはインタビュアーの女性の目を見て、頷く。 「カエデさんが、人生で一番パニックになった瞬間はなんでしょうか?」 今でも、すぐにその時のことを思い出せる。 今の時代なら、ネットがあるから、そんなことはないだろう。 だけど、まだその時代はネットが主流ではなかったから。 「わたしが人生で一番パニックになった瞬間は……」 「……え?」 それを知った瞬間、わたしの目の前は文字通り、真っ暗になった。 「まさか、知らなかったの? カエデ、もう十五歳でしょ?」 ママは苦笑した。そんなことも知らなかったとは思わなかったのだろう。 「必着って、相手の手元に書類が届かなければならない日のことよ。郵便局に届ければいいってことじゃないのよ」 それは、消印有効ね、という言葉はわたしの右耳から左耳へと通り抜けていった。 わたしの肩から、学校に行くためのカバンがするりと落ちた。 ずっとわたしは勘違いをしていたことになる。 わたしは小学六年生の頃から、大好きな女優さんの事務所が毎年主催するオーディションに、毎年応募をしていた。 けれど、いつも最終日の応募だった。つまり、必着の日に郵便局に持ち込み、発送を依頼していたということだ。 最終日の応募になっていたのは、女優になりたい思いや、添付する写真など、自分が最善だと思えるものにしたくて、ギリギリまで悩んでいたからだ。 それが仇となっていた。 わたしは応募期間を過ぎて、毎年応募をしていたということになる。 毎年、わたしはいつも絶望していた。落選の通知すら来ない落選に次ぐ落選。 それでも、憧れの女優さんみたいになりたくて、鍛錬を続けていた。 誰にもその想いを打ち明けることなく、家族にも黙って。 でも、今回はママに応募書類を見つけられてしまった。まあ、わたしが机の上に置きっぱなしにしてしまったのだけど。 だから初めて判明した。わたしの重大なミスが。 そして、今日がまさにその応募期限の日だった。 これでわたしが応募先である東京あるいはその近郊に住んでいたのなら良かった。だけど、わたしが住んでいるのは北海道だ。電車で一時間なんて距離ではない。 わたしはパニックになった。 「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」 これまでの頑張りが全て無駄になる! でも、今から郵便局に行っても、速達にしても、何をしても絶対に間に合わない! 瞬間移動? そんなものはできない! どうしたらいいの? どうすればいいの! わたしの脳内は大混乱を起こし、思考が全くまとまらなかった。どうしたらいいのか、全くわからないッ! 諦める? 諦めるしかないの? ここまで頑張ってきて、遊ぶのも我慢して、毎日毎日毎日、必死になって頑張ってきたのに? 女優になりたくて、憧れの人に近づきたくて頑張ってきたのに? 「……これで、おしまいなの?」 こんな幕切れは嫌だ! 挑戦して、ダメだ、と言われるならまだ諦めもつくかもしれない。だけど、わたしは挑戦権すら得られていなかった。ダメかどうかすら、判断されていない。 可能性がわずかでもあるなら、わたしはまだ女優になれる可能性がある! だけど、そのスタートラインにすら立てていない。自分のせいなのはそうだ。だけど、だけど、こんな終わり方は、納得できないッ! 「どうにか、しないと!」 考えろ。考えるんだ。パニックになっても、考えることはできるはず! 散らかった思考で、何とか考える。もう郵便は間に合わない。これは確定だ。 だとすれば、残された手段は一つしかない。 「……現地に乗り込むしか、ないッ!」 でも……中学生のわたしが一人で東京まで行くなんて、許されるはずがない。 だけど……。 「諦めたくないッ!」 最後の最後まであがきたい。それでダメなら、仕方がない。でも、あがきもしないで、終わるなんて、嫌。嫌。嫌。絶対に嫌だッ! わたしはママを見た。本気の瞳で。揺るがない覚悟の瞳で。 「ママ……わたし、応募書類を届けに東京に行きたい」 ママは黙ったまま、わたしを見つめた。今までにない瞳だった。わたしにいつも向けられている、愛し、慈しむ瞳じゃない。覚悟を見定めている、心の奥の奥まで覗き込むような瞳だった。 ……まるで、あの人のようだった。あの人が最後に出演した作品のラストシーンで見せた瞳そのものだった。 怖かった。背けたかった。逃げ出したかった。 わたしだったら、この圧力には耐えられない。 だから演じる。わたしじゃない誰かを演じる。それこそ、憧れのあの人になり切る。憧れの人と同じ瞳で応戦する。そうすることで、弱いわたしの心に蓋をすることができる 一体、どれくらい見つめ合っていたかわからない。 だが、終わりは不意に訪れた。 「……全く、しょうがないわね」 ママはふっと息を吐いた。そして、いつもの優しいママの雰囲気に戻った。 「……まるで、あの頃のわたしね」 「……え? 何か言った?」 「何も言ってないわ。さあ、行くと決めたなら、もう行くわよ」 「……うんッ!」 内心で、もう行くの!?と思ったけど、それはおくびにも出さない。出したら、心変わりをされて、東京に行けなくなるかもしれないから。 わたしは学校の準備をしてあったカバンから、授業道具を投げ捨て、応募書類など、東京に行くための最低限のものだけを詰め込んだ。 ママも最低限の荷物だけ持ち、すぐに玄関を飛び出した。 その後、車に乗り、飛行機に乗り、電車に乗り、締切ギリギリのタイミングで事務所に応募書類を提出することができた。 正直、わたし一人だったら、間に合わなかった。東京が、こんなにも複雑で入り組んだ街だとは思っていなかったから。多分、迷いに迷った挙句、時間切れになってしまっていただろう。 ママが、迷うことなく、目的地の事務所まで進んでくれたおかげだ。 「……ありがとう、ママ」 わたしは帰り道で、ママにお礼を言った。 それを聞いて、ママはわたしを撫でてくれた。 「頑張りなさい」 ママの言葉が優しく胸の中に響いた。 その後、わたしは事務所の試験に合格し、事務所への所属が決まった。すぐにデビューをしたわけではないけど、少しずつ努力を重ねた。 端役をもらい、存在感を示しながら、着実に階段を上った。 そして、ようやく、今、主役の座をもぎ取ることができたのだ。 それにしても、と思う。 ママは人が悪いな、と。 ママは全てを知っていて、全てを黙っていた。それを知ったのは、つい最近、映画の主演が決まったと報告した時だった。 必着の意味を勘違いしていたことも、事務所に応募していたことも、最初から知っていて、黙っていた。 そして何より……。 わたしはインタビュアーに向かって、質問の答えをはっきり口にした。 「わたしが人生で一番パニックになった瞬間は……母が自分の憧れの女優さんだった、って知った時です」 ~FIN~
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