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2.相談事
翌日。
今月の締め処理が終わると、次第にここ経理部内も慌しさが落ち着いていき、平常業務へと移行していった。
しかし今度は、毎月行われる社内会議の資料作りに追われることとなる。この時期の経理部は私語も少なく、皆が黙々と作業に追われていた。
経理部内に外部から外線電話が入る。それを受けた女性社員は、保留ボタンを押して飯嶋の名を呼んだ。
「飯嶋部長ぉ、監査法人Yの藤間さんからお電話です」
女性社員に呼ばれた飯嶋は軽く視線を合わせて手を揚げると、手元の受話器を取り上げた。
「はい、飯嶋です」
この時期になると、監査のために外部の監査法人から毎月会社内へと公認会計士が派遣される形となっていた。社内にも監査人はいたが、またそれとは別の組織によるものだ。
この会社を担当しているのはその藤間(とうま)という男性だった。今月の監査の段取りのための連絡だろうと、会話を聞いていた琉威にも推測できる。
通話を終えると、次に飯嶋は課長の津田へと次の巡回監査の予定を報せていた。津田はそれに合わせて使用する会議室を押さえるのが毎月の光景となっている。
「わかりました。十九日の十時からですね」
津田の復唱する声が聴こえた。
何気に聞き流していた内容だったが、琉威にとってその日は思いもよらぬ一大イベントともなる日となるのだった。
その日の夜。琉威は近くの居酒屋へと同僚の瀧とともに入店していた。先日約束した恋愛相談を引き受けるためだ。
「付き合ってくれてありがとな。俺ひとりで考えてても埒があかなくてさ…」
瀧は首元のネクタイを緩めながら椅子へと腰を下ろすと、どこかホッとした表情でタッチパネルを手にした。普段からよく利用しているのか、慣れた様子で二人分のビールを注文しはじめた。
「うん。オレは大丈夫だからいいよ。それにしても、瀧からの恋愛相談だなんて珍しいね」
それはずいぶんと珍しい事だった。
瀧は同期ながらも男女構わず面倒見の良いタイプで、そんな点から女性には勿論のことウケが良い。顔立ちも端正なほうで背丈も琉威よりはるかに高く、ぱっと見たところでも一七五センチほどはありそうだ。体格も細すぎず太すぎず、スラリとしていて見目でいうならば本当に申し分ない。同じ男性からみても性格だって良い男だといえた。
そんな彼が尻込むほどの恋愛相談とは如何にと、悩みとはいえ琉威でさえ興味が掻き立てられるほどだ。
しかしここは友人としての相談事である。仲の良い同僚へと真摯に向き合うべく、琉威は少しだけテーブルを挟んだ先へと身を乗り出して問いかけた。
「…で、どうしたんだ?」
「うん。その前にさ、先に話しておきたいことがあるんだ」
瀧はすいぶんと真剣な眼差しで琉威を見つめる。
「え…。な、何…?」
手元に置かれたおしぼりを袋ごと握りしめながらも、琉威は友人の口から飛び出す言葉をじっと待った。
「実はオレ…。男が…好きみたいなんだ」
きっと相手は勇気を振り絞って同僚である琉威へと、己のセクシャリティを告白したのだろう。しかし、言われた琉威は思わずポカンと口を開けてしまっていた。
「…なんだ、そんな事…」
琉威の口から出たのは、そんな呟きだった。
「お前さ…。そんな事って…それはないだろ…」
瀧は「はぁ」とため息を吐きながらテーブルへと項垂れてしまう。そんな告白をしたことなど、瀧にとっては生まれてこのかた初めてのことに違いなかった。
「ごめん! いや、そうじゃなくてさ! 男が対象っての、オレも…そうだから…」
「えっ?! マジなのかソレ?」
弁明するくらいならば真実を伝えようと、琉威は正直に己のセクシャリティも瀧へと告白した。瀧は身を乗り出して驚くものの、自分の告白にそれほど驚かなかった琉威をどこか納得がいったかのようにして、すとんと元の椅子へと腰を落とした。
「…うん」
言ってしまってから、琉威はハッと我に返った。瀧にだけは自分が“彼女”ならぬ“恋人”と同棲している事を、既に打ち明けていたのだった。
「だったら、ーーー話は早い!」
瀧は気を持ち直すと、その先の相談事へと切り出そうとした。けれど、それにストップをかけたのは琉威の方だった。
「ち…ちょっと、待って!」
琉威の心内では様々な憶測が思い浮かんでいた。
「場合によっては、その…オレでは力になれないかもしれない…」
琉威はせっかく乗り気になって話そうとする瀧の言葉を遮ってしまう形となった。
「場合によってって…? どんな?」
「…だって、それ…オレに相談ってことは、もしかして相手は会社関係の人だったりするの?」
「…うん、まぁ…」
琉威は自身の勘が当たったことに、嫌な予感を更に募らせていく。
「…それは、オレの知ってる人ってこと?」
琉威からの質問に瀧が応えるたびに顔を青くさせる彼に対して、瀧は逆に疑問を重ねていった。瀧が想いを寄せる男性が琉威の知人だという事実が、どうにも琉威には都合が悪いらしい。
瀧もまた小首を傾げながらも眉間にしわを寄せていくのだった。
「そうだけど…? 何が問題なんだ?」
意味が掴めずそう問いかける瀧に、琉威は言葉を失った。
(問題なら大ありだ!)
琉威はそれほど社交的ではない。だから社内での交友関係もさほど広くはないほうだ。
ここで瀧が想いを寄せる相手がまさかの飯嶋だったならば、完全にライバルになってしまうし、飯嶋でなくとも津田や、ましてや菅野であったならばとても琉威が手に負える相談事でもないだろう。
「まさか…相手は、その…上司…なの?」
おそるおそる琉威はそう聞き返していた。これが最後の質問になってしまうのかもしれない。もしそうならば、この相談話は瀧には申し訳ないがなかったことにしなければならない。
「いや…? お前がいったい、何を気にしてるのかよくわかんないんだけどさ…。この会社の人じゃねぇよ」
「えっ…!」
社内の人間ではないと聞いて、琉威は心底ホッと胸を撫で下ろした。
(ん? まてよ…?)
「瀧、でもさっきは会社関係だって…」
瀧は唇に指を添えて口を閉ざした。ほんの数十秒のことだったが、琉威にはとても耐え難い時間となる。
やっとのことで開いたその口は、己の相談事ではなく、琉威への質問だった。
「あのさ。…お前の付き合ってる奴って、その上司なの?」
(しまった…!!)
愚かにも自分から暴露してしまった形となってしまったが、とりあえず今は話すべきことではなさそうなことだけは確かだった。
「い…いやいやいや、その話はまた今度にしてくれ! 今日は瀧、お前の相談なんだろ?! 社内の人間じゃないってんなら、ちゃんと話聞けるから。お前の言うその、オレの知ってる社外の人間ってのは一体誰なんだよ?!」
琉威は半ばヤケになって、一気に瀧のその想い人を問い正したのだった。
瀧はそんな琉威に観念したかのように口を割った。
「…藤間さんだよ。ほら、巡回監査で毎月来てるだろ? あの人…」
瀧はその名前を口にしたというだけで耳まで赤くさせている。
(藤間? 藤間、藤間…。あ! 今朝、友に連絡のあった監査法人Yの…)
ちょうど今日、今月の監査予定の連絡が入っていたことを琉威は思い出した。
「あの…?」
琉威は時々会社へと訪れるその藤間の姿を脳裏へと思い起こした。
「そう、あの。」
瀧は運ばれてきた酒を酌み交わしながら、恥じらいつつも話を続けていく。
「やっぱ、男の俺には望み薄いよな…」
藤間。彼の下の名前までは経理部の人間である琉威ですらも知らなかった。
背がやたら高い印象があった。一八〇センチはゆうにあるだろう。物言いはとても穏やかで、高感度の高い端正な顔立ちをしている。公認会計士といった人気の職業に合わせて独身ということもあって、経理部の女性陣からもすこぶる評判が高かった。そもそも相手が普通のノンケならば、琉威から考えてもみても希望すら持てそうにないとさえ感じてしまう。
(瀧もきっと、相当悩んだんだろうな…)
しかし、そんな彼のことを瀧はどうして気に入ったというのだろうか。
「その、藤間さんと瀧は、今までに話をしたことはあるの?」
ただの一目惚れだというならばまだ傷は浅くて済むのかもしれない。瀧のようなシステム担当が、そうそう外部の会計監査人と接点を持つようなこともないのだから。
けれど、瀧の場合はそうではなかったようだった。
「うん。前回の監査の時にさ。システム上の流れを藤間さんから細かく聞かれて。その時はあの人とけっこう話したんだよ」
瀧の話によると、会計上の自動仕訳プログラムの関連で問題が見つかり、調査に立ち合った瀧が彼の対応に当たったようだった。確かに経理部だけでは対応不可能な領域だ。
この瀧は、パソコンのプロのような人間だった。入社前から大学とのダブルスクールで専門学校に通い、大学在学中にシステム関係の資格の殆どを取得している。システム担当の中でも瀧の知識の幅は相当深いものだといえた。
公認会計士の藤間からの専門的な質問にもサクサクと答えていくうちに、瀧のそんな姿に感心して藤間もまた笑顔を向け褒めてくれたのだと言った。
(その藤間って人が瀧のことを褒めたくなる気持ちは、わからなくもないなぁ…)
琉威は同僚の瀧の仕事ぶりをよく知っている。
普段から瀧は、仕事のゾーンに入るととても良い目つきで作業をこなしていく。キーボード上を滑るように動くその手慣れた手つきは、琉威から見ても格好よく魅力的だ。誰が見ても惚れ惚れする仕事振りといえよう。
(まぁ、オレの友への気持ちとはまた、違うけどね)
などと友の手前、心の中で弁明してみる。
「じゃあ次も、そのシステム上のことで藤間さんと話し合いがもたれるんじゃないのか?」
「…それは多分ない。問題はもう片付いたから」
「そっか…」
どうも瀧の出来の良さが仇となってしまったようだった。打つ手なしといった様子で瀧はコテンとそのテーブル上へと組んだ腕に頬を乗せた。
琉威も、友人でもあり同じ穴のムジナとでも言うべき瀧の力にはなりたいと切に願うものの、これといって対策が立てられるわけでもなかった。
せめて自分が平社員ではなく、もっと藤間と対等に話ができる立場の人間ならば…と、そこまで考えて琉威はその存在に行き当たった。
(そうだ…!)
「あのさ、瀧。この件、飯嶋部長に相談してもいいか?」
飯嶋ならばどんな社員の相談にも親身に乗ってくれそうに思えていたのは、琉威のひいき目なのかもしれない。むしろこの手の話なら、飯嶋ならば喜んで乗ってくるだろうとも思ってのことだった。
けれど、当の瀧からはすぐさま全面拒否が入ってしまう。
「はああああっ?! ちょ…! それはさすがに無理だろ!」
琉威は名案だと思っただけに、あからさまにもシュンとしょげてしまった。
「あ…悪い、矢野」
折角、自身の相談に乗ってくれているのに強く否定してしまったことに対して、瀧は謝罪の言葉を返した。そして、どうして飯嶋のことを拒否してしまったのかを付け加える。
「俺、あの人ってどうも苦手なんだよな…」
「え?! 飯嶋部長のことが苦手?!」
飯嶋のことを苦手だと思う存在がいたことにすら、琉威は驚きを隠せなかった。
「あぁ…。なんか、自分だけが嫌われてるみたいな気がして…」
飯嶋の人当たりの良さは天性ともいうほどの代物だったが、瀧にはどうやらそうではないようだった。そんな筈はないと思いつつも、琉威はその理由にもやがて行き当たってしまう。瀧のことになれば凍りついていた飯嶋のその顔すら思い浮かんだのだった。
(…もしかして、オレのせい…?)
飯嶋は瀧との交流を咎めこそしないが、瀧と個人的に親しくすれば不機嫌な表情を露骨に覗かせたりもしている。それが少なからず瀧に対しても態度に出てしまっているのかもしれなかった。
(いや、たぶん間違いなく、オレのせいだな…)
「じゃあ瀧、お前の名前は出さないから! このままじゃ埒があかないだろ、相談くらいならしてもいいんじゃないか?」
このままでは進展どころか後退すらも見込めない。諦めて忘れるしか方法がないと感じるのは瀧も同じだろう。
「名前、出さないんだったら…」
半ば渋々と瀧は琉威の提案に納得した。
瀧から了承を得た琉威は、さっそくとばかりにどうやって探りを入れようかと考え始めた。飯嶋がサポートに入ってくれるとなれば、瀧の恋愛にも光がみえる気がしていた。
「ところで、お前の付き合ってる上司ってのは…。まさか、飯嶋部長じゃあないよな?」
(へえっ…?!)
突然、鋭い質問が瀧の口から飛び出した。
「まっ! まっさかぁ~!」
飯嶋の瀧への対応の悪さと相まって、琉威はつい後ろ暗くなってしまい嘘をついてしまっていた。
それに瀧は同じ職場で、しかも同じフロアの人間だ。彼のことはもちろん信用こそしていたが、飯嶋の手前、そうそう周囲に知られてはならないような気がしてしまう。
(ごめん、瀧…)
せめて瀧の恋の行方だけでも事良く運ぶのを願いながら、琉威は注がれたままだった酒へと口をつけていったのだった。
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