1.飯嶋の憂い

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1.飯嶋の憂い

 会社の大蔵大臣とも例えられる経理部の部長。  そんな会社の根幹といえる職務を任されているのは、営業部から異動した飯嶋友(いいじま・ゆう)だ。  前部所では次期営業部長とまで言われていた飯嶋だったが、当人の希望もあってここ経理部へと異動を果たした。  元営業職という肩書きから勿論のこと、社交面は天性かと思われるほどにダントツで優れており、その点だけをとってみれば管理事務職に据え置くには勿体無い器だとさえ感じてしまうほどだ。しかし、営業だけでなく経営に関する知識もまた折り紙付きで、飯嶋は経理分野に関してもあらゆる知識を保持していた。 「じゃあ皆んな、今月の締め作業も頑張っていこう」  経理部において、ひとつの業務が本日期限を迎えていた。朝の伝達事項を締めくくるようにして、飯嶋は経理部のデスクの島の一角で部下の皆へとそう伝えた。  ここ経理部の主な業務としては、一年間の業績をまとめた年次決算の前に、三ヶ月毎の四半期決算、そして毎月行うこの月次決算という段取りがある。今日はその月次決算の締め日にあたっていた。  各部門で入力されたデータは、承認された後にPC上で処理されて数値データ化される。それは、経営企画部という名のシステム課が担当していた。 「なぁ、矢野。あとどれくらいで締められる?」  そう言いながら、経理部の新入社員である矢野琉威(やの・るい)のデスクへとひょっこり顔を出したのは、同じフロアでシステムを担当する瀧保(たき・たもつ)だった。 「ごめん、瀧。たぶん…ギリになると思う…」  この瀧と琉威は、入社一年目の同期である。経理部と彼の所属する経営企画部は同じフロアに配置されていることもあって、琉威は普段から彼と親しくしていた。勿論、恋人である飯嶋も、この関係は存分に把握している。  ただ、この二人が仲良さげにしていればやはり、ついさっきまで燦々と輝いていた経理部の太陽とも言われる飯嶋の顔色は、分厚い雲がさしかかったかのようにして次第に影をさしていくのだが。  だからといって飯嶋も、琉威の交友関係に対してどうこう口を出す質でもなく、琉威も瀧とは当たり障りのない程度の友人付き合いをしていた。 「ん。わかった」  瀧の手のひらが琉威の頭の上へとポンと置かれる。それは同期ながらも、どこか琉威のことを弟分のようにみているのだと見てとれた。 (同い年なんだけどな…)  琉威は小さく苦笑する。そう思わせるのは身長差からなのか、それとも琉威の顔が童顔だからなのか。 (とにかく、少しでも早く終わらせないと!)  経理部が締め処理を行わないと、システム側の最終的なデータ処理は終わらない。結果的に瀧の仕事もまた終われない状態となってしまう。  琉威は気持ちを入れ替えて目の前の画面を見据えた。  オフィスの窓から窺える外の様子は、とうに日も暮れてしまい真っ暗だった。街灯のお陰で明るいだけの街並みの端では、ひっそりと月が昇っている。  この時間になっても次々と各部門から上がってくる数字を確認しながら、琉威は己の力が微力ながらもせっせと作業を進めていった。  ようやくのこと今月の締め処理を終えた琉威は、ホッと安堵に包まれながら休憩室で缶コーヒーを煽っていた。 「お疲れ! 早かったな。お陰でこっちも早く終われそうだ」  データを受け取った瀧が、段取りよく仕事をこなしてくれた琉威へと礼の声をかけてよこした。 「あぁ。なんとか今月も無事終えられて、良かったよ」  缶コーヒーを持ったままヘニャリと笑う琉威は、やっぱり瀧にはどうしても後輩のように映ってしまっていることだろう。瀧はそんな琉威に軽く笑い返すと、ふと口元に指をあてて考える素振りをみせた。 「ところでさ、矢野…。ものは相談なんだけど…」  その口元は、ぽそりとそう呟いたのだった。 「…相談? どんな?」  突然の瀧からの相談に、琉威は締まりなく笑っていた表情を引き締める。 「まぁ…、ここでは言い難いんだけどさ…。その、恋愛関係で…」  ずいぶん歯切れの悪いその物言いは、彼の初さを感じさせた。 「ああ、そっちの相談…?」  琉威は少し考えると、 「うん。聞くよ。明日でいい?」  瀧のこの様子ではきっと、夜な夜なモヤモヤと悩み続けているに違いなさそうだと悟った。少しでも早い方が良いだろうと、琉威は明日の予定を考える。 「うん。そうしてもらえると…ほんと助かる」  瀧は気恥ずかしそうにしながらもそう答えた。 「わかった」 「サンキュ。じゃー、場所はまた送るよ」 「うん。よろしく」  琉威はそんな彼を見送りながら、この数日の献立を考えていた。 (確か牛肉はまだ賞味期限も残ってた筈だし…。あ…あと、友にも話しておかなくちゃ…)  そう遠くもない場所にいる飯嶋へと、琉威はスマホでポチポチと連絡を入れた。同棲している飯嶋に明日の外食の連絡をするためだ。  飯嶋のデスクの上に置かれたままのスマホから、琉威が送ったメールの着信音が鳴った。  琉威からの着信に、飯嶋はまるで雲から出てきた太陽のごとく顔色をパッと明るくする。 (うぅ…。気まずい…)  飯嶋は琉威の交友関係に対してあれこれ文句を言ったりはしないが、近頃は琉威の口から瀧の名が上がれば僅かながらにその表情は凍りついたりもしていた。  スマホを確認したそんな飯嶋の顔をチラリと盗み見ていれば、案の定、太陽が再び雲へと隠れてしまったかのようにして目を据わらせて、恨めしそうに休憩室にいる琉威へと視線を送ったのだった。まるで、日本神話に登場する天のお隠れのワンシーンを思わせる。 (ごめん…友…)  今回ばかりは瀧との二人飲みでも許して欲しい。  飯嶋からは返事の代わりに、琉威のスマホへと泣き顔のスタンプが送られてきただけだった。
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