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5.再会
藤間からの相談事を引き受ける前に、条件として飯嶋は瀧と藤間の二人を顔合わせする約束をとりつけた。最終的な結果がどうであれ、できることならば本人の口から返事を伝えてやって欲しいという飯嶋の思いからだった。
藤間と瀧の二人が会う場所は、駅からほど近いカフェとなった。スマホに送られた場所を頼りに、藤間と瀧の二人だけで直接待ち合わせをして会うことに決まった。
先にそのカフェへと到着していた藤間は、自分に好意を抱くというその男性に今日、どう断りを入れようかと考えあぐねていた。昨晩はまともに熟睡した気すら全くしなかった。
ぼうっとする頭を一度振り起こしながら、藤間は眠気覚ましに珈琲のおかわりを注文した。ほどなくして湯気の立ち上がったコーヒーカップが藤間の前へと運ばれてくる。
これから断りを入れる相手とわざわざ顔を合わせるということが、お互いにとって何のメリットになるというのだろうか。会うのを断ってしまいたい気持ちが勝っていたが、藤間はこの次に訪れるだろう己のチャンスまでもをどうしても不意にするわけにはいかなかった。
今からやってくるだろう想像もつかないその相手に対して、小さなため息が出てきてしまう。そもそも自分にはもう三年も前から想いを寄せる“男性”がいるのだ。
自身が担当しているあの会社内に、藤間の想い人はいた。想いの強さだけは既に三年越しだった。だというのに、自分はどうやら他の男性から慕われてしまったらしい。
それでも可能性があるならば乗らない手はないと、この話を引き受けたのだった。藤間もまた、自身の恋心に対して藁をも縋る思いでしかなかったのだ。
ようは、これから来るだろうその彼に返事をして納得させればいいだけの話だ。気が進まないながらも、藤間は新しく運ばれたコーヒーカップの縁へと指を絡めると、それを一口だけ口にして心に覚悟を決めたのだった。
待ち合わせ予定時刻の五分前になって、琉威が紹介したいというその男性は店へと姿を現した。まだ若い新人社員だと聞いている。コツコツと、静かな靴音を立ててこちらへと近づく彼がきっとその男性に違いなかった。藤間は意を決して近くに歩み寄った相手へと顔を上げた。
「……っえ!?」
藤間の座るテーブル席のすぐ真横で立ち止まった瀧は、挙動不審そうにしながらも恥ずかし気に目を合わせた。いつもは誰にでも真っ直ぐな視線を向ける瀧だったが、さすがに動揺を隠せないでいる。
「あの…」
すらりと目の前に立つその男は、藤間もまたよく知った男性だった。
藤間は思わず目を見開いて席から立ち上がった。
「君は…」
つい一カ月ほど前に共に仕事をしたばかりのシステム担当の男…という印象しかないだろうと踏んで、瀧は幻滅されるのを覚悟でその場へとやってきた。
「お久しぶりです! 社内のシステムを担当しております瀧です。先月は、大変お世話になりました」
過緊張ぎみになりながら瀧は、やっとのことで辿り着けた藤間の前で一度深く頭を下げた。背の高い藤間が椅子から立ち上がっても、瀧の身長はわずかに見下ろすほどだ。藤間はどんな顔をしているのか。おそるおそるながら、瀧は彼へと視線を上げた。
「ほんと…」
けれど彼は予想とは全く違って、ひどく和やかな笑顔を覗かせていた。
「本当に、お久しぶりですね」
「え…?」
ポカンとした顔を返す瀧は、その言葉の意図が掴めずにいた。けれど藤間は、己が記憶する過去に見た彼を今はっきりと脳裏に思い出していた。
「こっちは、……先月どころの話じゃないんですよ」
三年前。
まだ大学生という立場で公認会計士を目指していた藤間は、大学とのダブルスクールでとある専門学校の夜間コースに通っていた。
夜の二十二時。仕事上がりの社会人や学生たちをターゲットにした資格取得講座を謳ったビルが幾つも軒を連ねたビル街で、藤間はまだ学生だろう瀧のことをよく見かけていた。
その彼が出入りしていたのは、会計・情報処理専門学校と看板をあげたビルだった。会計というならば自身の目指している公認会計士と同じ分野ではあるが、そのビルの中にはそれ以外にも各種様々な受講コースが存在していた。いったいどんなコースを受講しているのか、それすらも藤間はわからずにいた。自分と同じ年頃だろう彼を見かけては、藤間はそんな彼をすっかり気にかけてしまっていたのだった。
時々見かける彼は、スラリとした身なりの、とても好感の持てる端正な顔立ちをしていた。いつも固く口の端を結んだ物静かそうなその表情は、藤間の目にひどく魅力的に映りこんでしまう。
とりわけ同じビル内のスクールでもなかったが、休日の昼時には近隣のカフェの片隅で昼食をとりがてら勉強している彼の姿をよく見かけたりした。藤間はその彼がよく眺められる席へと腰掛けると、藤間もまた少し離れたそこで受講中のテキストを開いては長居を決めこんでいた。
当時の瀧は、年齢も素性も何も全く分からない存在だった。ただ彼はいつもひとりで、高品質そうなイヤホンを耳に付けて音楽を聴いていた。もしかしたら聞いていたのは受講動画か何かだったのかもしれないが、周囲がどれだけ騒がしかろうとも、彼はその場でただ独りの世界を確立させてまるでその場がひとりの世界のようにして座っていた。
藤間はその頃、ちょうど自身の受講する公認会計士の資格試験の受験シーズン真っ只中だった。少しの焦りと、来年には就職を控えたそんな季節感のなか、彼に声を掛けられるはずもないままに藤間はそんな瀧の姿が見られることを唯一の楽しみに、孤独な受験生活を送っていた。
晴れて、公認会計士の資格を取得したものの、その頃には気がつけばもう彼の姿はどこにも見かけることはなくなっていた。彼もまた自身の受講していたコースが終了し、あのスクールに用がなくなってしまったのだろうことが、その時になってようやく知れたのだった。
今まで当然のように見かけていたその姿が見えなくなってしまえば、再び彼と会える確信など到底持てはしなかった。
呆気なく終わってしまった藤間の恋心に、当時はひどく引きずっては落ち込んだものだった。
けれど、幸いにもそれから一年後に偶然にも見かけた彼は、まさかの顧問先の社員となっていたのだ。
この機会を逃すまいとして、藤間は何かと仕事上で理由をこじつけてはシステムを担当する彼と接点を設けようと躍起になっていた。精一杯に自然を装いつつも、内心では必死になって彼と顔を合わせる機会を狙っていたのだが、とうとうネタも尽き果ててしまっていた状態だった。
まるで言いがかりのようにもとれそうなプログラム上の問題を持ちかけることで、晴れて念願叶って彼と話す機会を得ることもできた。しかし、瀧は若いながらもハキハキと返答を返し、藤間が築き上げた社内の問題を次々と解決していってしまったのだ。
その凛とした彼の横顔は相変わらず健在で、藤間もまた彼に再び惹かれずにはいられなかった。会うほどに想いは強くなる一方でしかない。だからこそ、もう二度とチャンスを逃したくはなかった。
「三年前から、君のことは知っていました」
「えっ? さ、三年前…ですか?? ええと…」
記憶を遡っているらしい瀧を前に、藤間はもう笑うしかなかった。ついこぼれてしまう笑みをなんとか抑えつつ、藤間は続けた。
「えぇ。でも知っていたのは僕の方だけなんです。あなたが専門学校に通われていた頃。その時に、よくお見かけしていました」
「——あ、もしかして、お隣のビルの…?」
瀧の通っていた専門学校の隣には、公認会計士の専門学校があった。それをどうやら彼も思い出したようだった。
それでも瀧には隣のビルの人間との交流なんて持った記憶もなくて、瀧は眉を顰めてただ記憶をほじくり返そうとしている様子だ。
ただすれ違っただけの人間を思い出すはずはないだろう。
「……っあ!」
それでもいいと、藤間は小さく声をあげた彼と目を合わせる。けれど瀧のその目が、想像以上に見開いたことに少しばかり驚いた。
自分の何を覚えているというのか。
「もしかして、……カフェによく居た人…?」
今度は藤間が驚いて目を見開く番だった。
瀧が注文したアイスコーヒーの氷が、グラスの中でゆっくりと溶け出してカランと音を立てた。改めてテーブル席に着いた二人は、そんな氷の音を聴きながら、当時の記憶を振り返っていた。
「あの時は俺、システム関連の資格の取得に必死でした。社会に出るにはまだ不安が大きくって、だったら少しでも力を付けておけば安心できるかなっていう思いで通ってたんです。だから、あのカフェで同じように頑張って勉強してる人がいるんだなって当時は思ってて。勝手に自分も頑張ろうって感化されたりしてたんです」
そう語りながら、ハハっと照れ笑いをこぼす瀧の目は、今度は綺麗に細められた。
三年前は遠くで眺めるだけだった彼と、藤間は今まさに目の前で会話を交わしている。それが藤間にはまるで奇跡のように思えてならなかった。
「僕も、同じようなもんですよ。お陰で会計士に合格できたようなものです」
当時の瀧がカフェで見かけるだけの見知らぬ藤間に抱いていた感情は、俗に言う“同志”というものだろう。
それでも藤間は、当時の瀧が己の存在を気にかけてくれていたことだけでも心が踊りそうだった。
けれど瀧は笑んだばかりの顔を途端に曇らせてゆく。
「なんだ…そうだったんだ…。だったら、声をかけて下さればよかったのに」
少しだけ淋しそうに、瀧はそう呟いた。
それができたならどれだけ良かったか。
藤間はそんな瀧へと細く息をついた。
「ただの同志という気持ちだけだったのならば、あの時僕は、迷わずあなたに声をかけていたかもしれない。でも僕は、あなたのことをすっかり意識してしまっていたので…」
「意識…? ———え?!」
今日、この場へと告白をしにきたはずの瀧が逆の立場に立たされる形となる。
瀧は茫然としながら脳内にハテナを飛ばすしかなかった。処理しきれない情報で脳が完全にバグってしまっいるようだ。
「好きになったのは僕が先なんです。僕から言わせてください。瀧保さん」
既にフルネームまで覚えている藤間と目を合わせれば、瀧はそれが真摯な申し出なのだと十分すぎるほどに知れた。
「僕と、付き合ってもらえませんか?」
既に瀧の気持ちは知っていたが、藤間はどうしても自分から言わずにはいられなかった。
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