救済の『一』

1/1
3人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
──世には未知のウイルスが蔓延っている。いわく、『汚い言葉を浴び続けたものはやがて肌や臓腑が腐っていく』というもの。異形と化したひとびとは街ゆく人間を襲う。人付き合いの少ない私には縁遠いものと思っていた。なのに、それなのに。どうしてこうなっている。 「弾は一発。それで確実にヤツを仕留めろ」と男は冷淡な声色を崩さず言った。片手に握られた鉄の塊がいやに重く感じる。喉の奥に鉛をこれでもかと詰め込まれた感覚を憶えた。胃の腑がぎりぎりと痛む。 私は目の前の標的に向けて銃を構える。手元は小刻みにふるえて照準が合わない。 標的である『かつて孫だったもの』は滑らかな肌を死を纏った色に変え、腐食で溶け崩れた右足を引きずり私へとゆるり歩み寄る。凹凸に擦られた右足は地面に腐肉の跡を引いているが、それでも祖母である私に歩み寄ろうと必死に近付いてきていた。 ぐずぐず、ぐずぐずと屍肉がにじり寄る。 「──ひ、」 あまりのおぞましさに喉奥で引き攣った声が漏れた。 あの子を終わりのない苦痛から解放してあげなければ。それが私の役割なのだ。いや、いや。やりたくない。あれは私の孫ではない。孫に化けた何かに違いない。そうだ、そうに決まっている。あの子は今も娘の所で幸せに暮らしているのだ。そうに決まっている、否。そうでなければならない。 ──そうでなければならない。私はパニックの中で無理矢理に結論づける。目の前の光景から目を背けようとし、何度も、なんども、なんども繰り返す。 『おばァチゃン、会いタかッた』 『孫だったもの』がぐずりと頬の肉が溶けた笑みを浮かべる。それは完璧な擬態にしては外見が醜悪で、本物の笑顔にしては異様な哀しさを孕んでいた。 それを見た時に、私の頬に一筋の涙が伝う。 ──繰り返したところで欺瞞は欺瞞なのか、ああ、あの子はやはり。 「騙されるなよ。アレはヤツらの常套手段だ」 男は一歩引いた位置から私を見つめている。老いて丸まった背中に視線が刺さる。かかる声は相も変わらず冷淡で感情の色が読み取れないが、心なしか、苦しさを内包しているような気がした。 喉が細く喘ぐ。溢れた涙は顎まで伝って、地面にぱたぱたと絶え間なく穿たれる。 「アンタの可愛い孫は死んだ。ヤツは身体の記憶を読み取って動いてるだけの抜け殻だ」 男の声は淡々と事実だけを告げる。私は溢れた涙を拭うこともせずにその言葉に応じた。そうでもしなければ到底正気を保っていられる気がしなかったからだ。 「っ、なら、何で私の家に来たの……!記憶にある場所なら自分の家でも、学校でも、友達のところでも!どこだって良かったはずじゃない!」 あの子には居場所がたくさんあったはずだ。優しく朗らかで、人当たりもいい。本当にいい子だったのだ。 混乱する私に男は事も無げに言葉を投げかけた。 「コイツが生前一番好きだった場所なんだろ。それ以外に理由は無い。大切な記憶に残っている大好きなアンタの姿を追い求めてここまで来た。それだけだ」 「──な、」 言葉が、出てこない。 私は銃を放り投げて叫び出したい気分だった。このパニックに乗じて自分も狂ってしまえたらどんなに楽だろうか。間違いなく可愛い孫は異形と化して死んだ。私は考える。それならばこの孫に喰われて終わることは何よりの幸せではないのだろうか。残り短い生ならば、いっそのこと。 かつて孫だった異形が、近づいてくる。 鼻腔を屍肉の匂いがつく距離まで近寄ってきたとき、 男が静かな怒りを孕んだ声で呟いた。 「──おい。まさかとは思うがコイツに喰われて終わるのもいい、なんて思ってやしないだろうな。 確かに生を終える自由自体は本人にある。好きにしたらいいだろう。俺は止める理由も権利も無い。 だが、アンタはその罪科を『孫』に背負わせるのか? 異形と化した後まで苦しみを背負わせようとするのなら、アンタは俺よりもよほど非情な人間じゃないか」 その言葉を聞いた瞬間──私の中で、何かが爆ぜた。 「──……!!」 私がこの子を、助ける。 急かされるように、促されるように。 目の前の『孫だったもの』に向けて引き金を引いた。 破裂音。 のち、ぐらりと異形の身体が傾いでいく。 「──ぁ、」 飛散した青黒い液体を呆然と見つめてから、私は年甲斐もなく声を上げて泣いた。 成長を近くで見届けられなくてごめんなさい。 たくさん会えなくてごめんなさい。 何が嫌いで何が好きか、もっと知りたかった。 どんな風に歳を重ねていくのかもっと知りたかった。 もっともっと、見つめていたかった。 辛かったね、気付いてあげられなくてごめんなさい。 災厄のせいにするつもりはない。 この手に掛けてしまってごめんなさい。 あるはずだった未来を奪ってごめんなさい。 助けてあげられなくてごめんなさい。 本当に、本当に。 あなたのことが大好きでした。 ──ぐじゃりと、異形が地面に倒れ伏した。 一部始終を見ていた男は、感情の熾火を肺から絞り出すような声で呟いた。 「──こんな光景は、誰も望んでない。 『汚い言葉』が蔓延っていない世界だったなら、──、」 『弾は一発。確実にヤツを仕留めろ』。そうでなければ無駄撃ちの数は躊躇の視覚化となり、決意を確実に削り取っていく。一発で仕留めろ。躊躇うな。躊躇いは命の終焉と異形の蔓延を意味する。 一発で仕留めろ、決して躊躇うな。 たとえそれがやがて腐りゆく己自身であろうとも。 この悪夢を終わらせるために、躊躇を捨てろ。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!