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「苑子さん、あなたはこんなものを見てはだめよ! 理久、早く苑子さんを外へお連れしなさい」
「う、うん。苑子ちゃん、こっちへ──」
頭の上がらない母親の声に焦って婚約者の腕を引く理久を、苑子は首を左右に振ってやんわりと拒絶した。
「私は大丈夫です。それより何があったんでしょう。こんな事になってしまって、原因になった方は気に病んでらっしゃるのではないかしら」
当事者とは思えないほどの、穏やかで優しい口調。本気で心配しているのが見て取れる。
誰かが故意に、という可能性が頭を過ることもなさそうだ。
──相変わらずね、幸せなお嬢様。自分が高いところにいることを確信してるから、下々に心配りできるのかしら。
「何らかの塗料でしょうが、臭いからしても水性でしょう」
この場の責任者であるチーフが客に告げる。
跪いてドレスの汚れを検分して、そういう結論に達したようだ。
「それが何なんですの? なんであれ誰かがわざと掛けたとしか考えられないじゃない!」
宥める意図を含んでいたのだろう彼の言葉は、理久の母には逆効果だったらしい。
「そ、それは……。ですが今野様、まだ乾いてもいませんし今すぐ処置すれば落ちるかもしれま──」
「冗談じゃありません! たとえわからないくらいになったとしても、こんな縁起の悪いドレスを大切なお嫁さんに着せられるわけないでしょう!?」
この場を平穏に治めたいのだろうチーフが苦し紛れの打開策を口にし掛けたが、今野夫人に即座に否定される。
確かにそうだ。白に黒い液体など、どう考えても『祝い』とは真逆のものを連想させる。
実態は、ただの水で溶いた黒の絵の具なのだが。
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