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胡蝶 望海(こちょう のぞみ)
「やだっ!離して!」
バタバタと脚や手を必死に動かしても、男に手首を握られただけで両腕の自由が奪われた。
圧倒的な体格差に抗うことは出来ず、男を見上げる。
体重をかけられると、身体がシートにめり込む気がした。
水中でもがいてるのかと錯覚するほど狭く息苦しい車内で、隣には真新しいベビーシートが置かれている。
生活感が漂う空間で、にやけ顔の男を見つめながら咲の顔を思い出していた。
逃げないといけないと頭では分かっているのに、身体が硬直して動かない。
唇が震えて言葉さえも奪われ、男は俺を見下ろしながら愉しそうに笑っている。
少し開いた男の口から煙草の臭いが漏れて、思わず顔を背けた。
ぞわっと身体中に悪寒が走り、太腿に擦り付けられた男の硬直した性器が蛇の頭に見えた。
―――蛇に殺される……!!
昔読んだ絵本が走馬灯のように頭の中を駆け巡っていると、乱暴にTシャツが捲られる。
肌の上を撫でる男の汗ばんだ手のひらに気色悪さを覚えながらも、啜り泣くくらいしかできない。
気持ちが粉々に折れてしまって、ただこの時間が1秒でも早く終わることしか願えなかった。
絶望感に打ちひしがられていると、暗かった車内が急に明るくなった。
「のぞ!!」
蛇を思い切り蹴り上げた咲が、俺に向かって手を伸ばす。
その手を掴むと思い切り引っ張られて、息苦しい男の下から這い出ることができた。
男が背中で叫ぶ怒声を聞きながら、少し前を走る咲を見つめる。
俺の手を痛いくらいにしっかりと繋ぎ、同い年とは思えないほど勇敢な背中に胸がかーっと熱くなる。
身震いするほど怖くて、窒息するほど胸が苦しくて、嗚咽を漏らしながら家に着くと……
泣きじゃくったぐちゃぐちゃな顔の咲に、思い切り抱きしめられた。
先ほどの勇敢さが信じられない程弱々しい表情でわんわん泣きながら、息が止まるほど強くしがみ付かれた。
咲の震える背中を撫でながら、俺も負けないくらい大声で泣いた。
さっきよりも気持ちは落ち着いてきたはずなのに、胸の鼓動は痛いくらいに高鳴る。
咲の泣き顔を見つめていると、胸の奥から感情がどんどん溢れていく気がした。
―――最悪な目覚めだ……。
咲の泣き顔がぐにゃっと歪み、見慣れた天井がぼんやりと映る。
あの事件から何度もうなされて、その度に跳ね起きた悪夢にしておきたい現実。
最近はめっきり見ていなかったのに、今日は久しぶりに見てしまった。
背中に纏わり付くTシャツが不快で、蛇の頭を思い出すだけで胃の奥を思い切り押される気がした。
―――気持ち悪い。吐きそう……。
ズキズキと痛むこめかみを抑えながら瞬きを繰り返すと、俺とよく似た顔が心配そうに見下ろしている。
「のんちゃん、具合悪いの?」
緑色の瞳を大きく揺らしながら、母さんに背中を優しく撫でられた。
優しく抱きよせ、髪の毛を撫でる指の細さに身体の力が抜ける。
身体の細さや柔らかな肌、甘い匂いに安心する。
中学生にもなって母親に甘える自分に嫌気がさしているけれど、この夢を見た後は咲以外の男が気色悪くて堪らない。
人畜無害の父さんやブラコンの陽兄さえ受け入れられず、頭と心が分離したかのように融通が利かない。
背中が痒くて掻きむしっていると、母さんが慌てて軟膏を塗ってくれた。
「ごめん。」
迷惑かけてごめん。心配かけてごめん。いつまでも弱いままで本当にごめん。
枕に顔を押し付けながら謝罪すると、肩の力が抜けるような声で笑いながら髪を撫でられた。
「今日はゆっくりしてる?」
「大丈夫。入学式だけだし。」
「やっぱり、車で送ろうか?」
「いいよ。咲と約束したから。」
「なんかあったら絶対に電話してね。」
「わかってるって。」
過保護で心配性な母親を部屋から追い出し、深いため息を吐く。
夢見が悪すぎたせいか、朝からずっと気分が重い。
この日を待ち望んでいたはずなのに、家から学校まで歩くだけで疲れ果ててしまった。
ずっと車で通っていた通学路が、今日からは歩いて通える。
本来はみんなが6歳で味わう気分を、俺は12歳で再び経験することになった。
小学校での徒歩の登下校は5日間のみ。
襲われてからは毎日車窓から見えていた景色が、今は触れる距離にある。
なるべく人通りが多い通学路を選んだから、人目がある安心感の対価は纏わりつくような視線の数。
俺が触れるということはもちろん相手も触れるということで、風が腕を撫でるだけで鳥肌がたった。
襲われた時に男に腕を掴まれた感触、全身を舐められるような視線、首筋にかかる息遣いや煙草の香り。
夢でみたばかりのせいか、よりリアルに感じられて気色悪い。
それを様々と思いだしてしまい、足が重い。
―――気持ち悪い。吐きそう……。
中学生になって少しだけ大人になれた気がして嬉しかったのに、視線で酔ってしまい入学式どころではない。
ブカブカの制服は、着心地が悪くて落ち着かない。
今日も隣に咲がいなければ、すぐに家に引き返していたに違いない。
歩けないとわがままを言って、中学も車で登下校していたに違いない。
小学1年の時から、少しも成長していない。
ひとりでは何もできない、ただの大きい赤ちゃん。
そのことを痛感して、自分がまた嫌いになる。
幼少期から家で過ごすことが多く、出かける時もほとんど車だった。
公園で好きに走り回れるのは、父親がいる時のみ。
ひと回り上の陽兄と出かけることはあるが、アレと一緒だと人の方が避けてくれる。
でも、そんな不自由な生活の中でも、楽しい思い出がたくさんあるのは咲のお陰だ。
バスケが大好きなくせに、外で遊ぶのが大好きなくせに、俺と一緒に家で遊んでくれた大切な友達。
弾まないボールを転がしている時、ゲームに熱中している時、すべてを諦めかけたあの瞬間さえ、咲は俺の隣にいてくれた。
それは、中学生になった今でも変わらない。
男に襲われたあの日、気づいてしまった。
大事な友達だと思っていたのに、そこに恋愛感情が足された。
この咲に対する感情は、身体の成長と共にどんどん大きくなっている。
誰よりも近くにいる幼馴染の咲が、ずっとだいすきだ。
―――このまま……ずっと、傍にいたいな。
咲にとってただのお荷物だけれど、搾取しているばかりで何も返せていないけれど、それでも咲は今も俺の傍にいてくれる。
自分のことくらいは自分でできるようになりたくて、咲と対等な関係になりたくて……
それなのに、初日から咲に手を引かれて歩く自分を情けなく思いながら、大きな背中をじっと見つめる。
―――なんにもできなくてごめんね。だいすき。
頼りない俺に怒っているのか、少し早足の咲の背中を追い駆けながら、沈みそうな気持ちで門をくぐった。
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