蛇に睨まれたオオカミ

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吐きそうな気分のまま、入学式が始まる。 四方八方から突き刺さるような視線から逃れたくて、そっと目を閉じた。 するとポンと肩を叩かれて、慌てて目を開ける。 寝ていたことを咎められると思って身構えると、俺の緊張を根こそぎ奪い取るような表情で見つめてきた。 「気分悪いの?」 「え?」 「顔色わるいから、こっち来なさい。」 すっきりとした顔立ちの教師に腕を引かれ、足がもつれそうになりながら立ち上がった。 逞しい腕に寄りかかるように、フラフラとした足取りで体育館を抜ける。 やけにすっきりした青空が頭上に広がっていて、空気が澄んでいる。 校庭に散った桜は風と一緒に舞い上がり、春の雪を降らせていた。 ―――あー、気持ちいい……!! やっと、普通に息が吸える。 何度か深呼吸ができると、頭痛が少しましになってきた。 「大丈夫?」 「すみません。」 「貧血ある?」 「あー……ちょっとだけ。」 「緊張して疲れたのかな?」 心配そうにそう言いながら額に手を当てられ、熱を確かめられた。 触れられても嫌悪感がなく、見つめられても視線が気にならない。 ―――なんか、この人は平気かも……? 「あの、大丈夫なんで戻ります。」 「いや、サボろう。」 「え?」 「つまんなくね?」 そう言って屈託のない顔で笑うから、俺もつられて笑ってしまった。 「つまんないです。」 「オッケー。俺も堅苦しいの苦手だから、HRまで喋ってよっか?」 「先生ですよね?」 「1C担任の西島。陸部の顧問でもあるから、そっちも興味あったら。で、きみが胡蝶くんだろ?」 「なんで名前……?」 「あー、色々話には聞いてて名前は知ってる。目立つからすぐにわかった。」 そう言って歯切れの悪い言葉で濁しながら、曖昧な笑みを浮かべた。 「それはきっと、いい話じゃないですね。」 小学校は、マジで最悪だった。 低学年の頃は毎日クタクタになるまで、男から逃げ回っていた。 捕まると、馬乗りになってキスされるから。 俺が寝ぼけて教師にキスをしたことが、そもそもの始まり。 外国人色が強い見た目から、俺に対するキスはただの挨拶だと、そんなつまらない噂で瞬く間に広まってしまった。 母親譲りの派手なハーフ顔で、誰がどう見ても女顔。 女顔のくせに性別は男だから、本当に男なのかと弄られることが多かった。 心無い言葉を散々浴びせられ、俺の泣き顔がそんなに面白いのか、日に日に虐めがエスカレートしていく。 キスがズボン下ろしに代わり、終いにはパンツまで奪われて、股間を狙われることが増えた。 咲に泣きついてからは虐められることも減っていったが、その頃にはすっかり自信を失っていた。 小学校でのことは、家族にも話せていない。 男に襲われたあの日から、異常なほど過保護になっていたから。 虐められているなんて口に出せば、学校にすら行かせてもらえなくなる。 弱くて恥ずかしい存在だと認めたくなくて、無駄に高すぎるプライドが余計に口を固くした。 情けない自分を変えたくて、何か自分に誇れるものが欲しかった。 ―――咲にバスケがあるように、俺にもなんかないかな……? 身近にあったものが勉強で、コスパがいいことが続けられた理由。 全国学力テストで上位に食い込むようになると、教師に褒められるようになった。 周りに勉強を教えることが増えるにつれて、今まで見向きもされなかった女子に話しかけられることが増えた。 女子とつるむことが増えてくると、気がつけばイジメはすっかり収まっていた。 散々悪口を言われていたのに、それと同じ口でやたらと褒められる。 無理やり股間を掴まれていたのに、それと同じ手で腫れものを扱うように優しくされる。 内容のない薄っぺらい会話を繰り返し、中身のない友達がどんどん増えた。 周りの急激な変化に戸惑いながらも、虐められるよりは優しくされる方がいい。 勉強さえしていれば、女子と仲よくしていたら、男に虐められない。 そのことに気がついてから、生きることがすこし楽になった気がする。 この中学校は学区外の中学で、俺が本来通う場所ではない。 高学年には虐めも収まっていたが、虐めていた奴らと同じ中学に行くのが嫌だった。 過去の俺を知らない環境に身を置きたくて親にわがままを言うと、詳細を話さずにすんなり聞き入れてくれた。 過去の俺を知らなければ虐められることもないと甘くみていたが、新しい環境はとても疲れる。 右を見ても左を見ても知らない顔ばかりで、同じ小学校のメンツが固まる教室で、俺は明らかに1人だけ浮いていた。 誰からも話しかけられないのに、教室を見渡すと漏れなく視線が合う。 試しにこちらから話しかけても、見つめられるだけで会話が即終了。 小学校とは違う種類のイジメが始まろうとしているのか、俯きながらも嫌な汗が流れた。 ―――すっげえ無理……!咲に会いたい!!抱き付きたい!! HR前の教室ではそれしか考えられなくて、居た堪れないような気分で過ごした初めての教室。 これが続いたらと思うと、初日から既に気持ちが折れかかっていた。 「教室か職員室に来れば大体いると思うから、いつでも遊びにおいで。」 「他クラでも行っていいの?」 「いつでもって言ったろ?」 そう言って親し気に微笑まれると、嬉しくなって先生の袖を掴む。 俺の行動に眉を顰めながらも、無下に振り解いたりはしない。 咲以外の他人と深く関わってきたことがなかったから、どう関わるのが正解なのか未だにわからない。 「適切な距離を保て。」「教師に甘えるな。」と咲には何度も怒られるけれど、甘えているほうが楽だ。 だって甘えていたら、みんな優しくしてくれるから。 「ねえ、甘えてもいい?」 そう尋ねると、先生の眉間に皺が寄った。 「うちのクラス居心地クソみたいに悪くて、すげえしんどいんだよね。どうにかならない?」 「見かけによらず口悪いな。なんかあったのか?」 「……仲間外れにされてる。」 「え?」 「俺、ここでも外されんのかな?」 「は?」 みんなが普通にできることが、俺にはできない。 人見知りなわけでも無口なわけでもないのに、ずっと見えない壁で覆われている気がする。 かわいいねと男に褒められながら、男のカテゴリーから外される。 きれいだねと女に褒められながら、女にはなることは許されない。 俺が思っている俺と、周りから見えてる俺に大きな歪みがあって、全身がレンズで覆われているように大きく屈折している。 昔も今も、変わらない。 ひとりだけ蚊帳の外に放り出されている感覚が、ずっと続いている。 同じ空間にはいるのに、ずっと仲間外れにされている気分だ。 「みんなと視線は合うんだけど、話しかけても無視される。普通に話しているつもりなんだけど、全然聞こえていないみたいにスルーされると……なんか、不安になる。寂しい。」 俺はここにいてはいけないような気がして、避けられているような気がして、また虐められるのかなと想像して怖くなる。 「あー、そう言う感じ。それで?」 何度も頷きながら、続きを促される。 「いや、聞いてた?無視されてんだけどって話。」 「あー、アドバイスをするとすれば目を見て話すな。笑うな。触んな。動けなくなるから。」 「俺はメデューサかなんか?」 「だって、親戚の類だろ?」 真顔でそう言うと、思い切り笑われた。 「心配すんなよ。そのうち慣れたら会話もできるから。今は美の過剰摂取で動けないだけだから。」 「……俺はアレルギーを引き起こすほどアレなの?」 「美人すぎて作り物かと思ったわ。」 「なんだよ、それ。」 ―――虐められてるわけじゃないのかな?俺、ここにいてもいいのかな……? 「泣いてんの?」 「泣いてない。」 「笑え。」 「さっき笑うなって言った。」 「生意気。」 「いひゃい。」 頬を思い切り抓られ、満面の笑みで見つめられる。 家族以外でこんなに安心する大人に会ったのは、初めてかもしれない。 「ねえ、ぎゅうしてもいい?」 「秒で捕まるからやめろ。」 「だめ?」 「だめに決まってる。」 きっぱりと否定すると、大きなため息を吐きながら額を指で弾かれる。 「いった!」 「てかさ、俺以外の教師にそんな発言すんなよ?」 「俺だって相手は選ぶ。」 「参考までに、どうやって選んでんの?」 「触れてみて平気かどうか。」 俺がそう言うと、楽しそうに笑いながら肩を叩かれた。 「すっげえ野生的。胡蝶って頭よかったんじゃなかったっけ?全国模試の上位って聞いてるけど。」 「あと匂い。」 「匂い?」 「口では嘘つけても、匂いは変えられないだろ?嗅いでいて安心する匂いってあるじゃん?」 「もっと頭で考えるタイプかと思ってた。」 「頭で考えるよりも、身体の反応が先じゃん。ヤバいって思ったら、逃げないと捕まる。」 くだけた話し方の先生に釣られて、俺の言葉もどんどんくだけていく。 友達のように接しても、先生は気にした様子もなくフランクな笑顔を向けてくれる。 「ま、そうだな。胡蝶はそれでいい。ヤバイって思ったら即逃げろ。生徒でも教師でも変なのいたら、俺んとこにチクりに来い。」 「うん!」 犬でも撫でるようにぐしゃっと乱雑に撫でられて、困ったように微笑まれた。 「陸部来ないか?扱いてやるから。」 「言われなくても入るよ。俺にとって走ることは生きることだから。」 「なんか哲学的な言葉だな?」 「どちかと言えば俗物的な意味だけど?」 「俗物?」 「捕まったらゲームオーバーじゃん?」 「……怖いこと言うなよ。」 「やっぱD組やだ。担任の先生すっげえ怖そうだし、みんなよそよそしい。咲のいるA組か先生のいるC組がよかった。」 そう訴えると、ふわりと背中に手を回された。 頭頂部に先生の顎があり、頼りになる胸に頬を寄せる。 全身毛布に包まれているような安心感に、ほっとしながら広い背中に腕を回した。 ポンポンと背中を叩かれて、すぐに引き離される。 「内緒な?」 そう言って、頭をぐしゃぐしゃにかきまぜられた。 愛好を崩しながら笑うと、だいぶ幼く見える。 もしかしたら、陽兄よりも年下かもしれない。 「のぞ、大丈夫?」 「咲!!」 ―――俺がいないのに気がついて、抜け出してくれたのだろうか? 心配そうに眉を潜めながら駆け足で近づいてくる咲の首に、思い切り抱き付く。 首筋に顔を埋めて息を吸うと、咲の匂いがする。 安心して、身体中の力が抜ける。 ―――優しい!すき!!!だいすき!!!! 「か、彼氏?」 「幼馴染。のぞ大丈夫でした?」 「あー、体調悪そうだったから連れ出した。」 「だから無理すんなって言ったろ?」 「ごめん。」 先生の質問に答えながら俺の背中をポンと触れただけで、速攻剥がされる。 「抱き付くな。」 「ケチ。」 「じゃあ、胡蝶任せたわ。」 そう言って先生が腰をあげてしまうから、「行かないで。」とごねながらシャツの裾を掴む。 「教師に甘えんな。」 「だって、この先生は大丈夫なんだもん。」 「大丈夫じゃない!のぞが甘えていいのは家族だけ。触んな。視線を合わすな。笑いかけんな。分かったか?」 「え?わかんない。」 「……わかんなくていいから守れよ。」 「咲はいいんだろ?」 「え……俺?」 「咲には触っていいんだろ?ずっと傍にいるって言ったじゃん?」 「言ったけど。」 「けど?」 「こいつからは手を離せって。」 手首を咲に掴まれて、シャツの裾から指を無理やり剥がされる。 俺たちの様子を興味深そうに見つめていた先生が、楽しそうに笑いながら体育館に戻っていく。 「疲れた?」 「ん?大丈夫だよ。」 「でも、朝からずっと顔色悪い。」 顔にかかった髪を耳に掛けられ、心配そうに顔を覗き込まれた。 すっきりとした精悍な顔に、短髪がよく似合う。 身長はどんどん離されるばかりで、高学年になるとランドセルを背負っているのが不釣合いなほどだった。 初めてみたブレザー姿は既に馴染んでいて、初々しさも感じられないほど様になっている。 昔は顔を見ているだけで考えていることがわかったのに、最近は無表情でいることが増えた。 笑いかけられることが減り、逆に怒られることが増えた。 対等な友達とは言えないから仕方ないのかもしれないけれど、すこし寂しく思う。 「うん。ちょっと……いやな夢見て。」 「いやな夢って、あの夢?」 咲の眉が悔しそうに歪むから、努めて笑顔を向ける。 ヤバい。咲にこの話題はご法度だった。 咲のせいではないのに、むしろ助けてくれたことを感謝しているのに、咲はいつも「ごめんね」って謝るから苦しくなる。 「もう平気だよ。何年前の話してんの?」 「嘘つかなくていいよ。」 珍しくぎゅっと抱きしめられて、すこし高めの体温を全身に感じる。 ドクドクと鳴る心音を聞きながら、咲を見上げた。 「ごめん。吐きそう。」 俺がそう言うと、咲が俺の前で屈む。 何かと思えば膝裏に手を当てられ、抱きしめられるように持ち上げられた。 急な浮遊感に戸惑いながら、慌てて咲の首に腕を回す。 「だ、大丈夫だから!普通に歩けるから!」 「いいから。」 中1とは思えない安定感で俺を姫抱きすると、足早で中庭を抜ける。 人目を避けてくれているのだろうか、体育館下のトイレは素通りして校舎に向かう。 優しさが滲みて咲の顔を見上げると、俺と視線を交えた瞬間にそらされる。 ―――また、だ。寂しい……。咲にまで避けられてる。 物理的にはこんなに近いのに、最近は心の距離がやけに遠い。 唯一の友達である咲にまで避けられてしまったら、拠り所がなくなってしまう。 頬を胸にスリスリくっつけて甘えると、咲が咎めるように大きなため息を吐いた。 不機嫌そうな顔を見上げていると、咲に軽く睨まれる。 「重くない?」 「のぞなんて、赤ちゃんから大して成長してないじゃん?何グラムあんの?」 「咲は成長曲線はみだしっぱなしだから、すぐにじじいになるんじゃね?」 「……落とすよ。」 「じゃあ、しがみついてる。」 「離れろって。」 「やだ。」 「のぞ?」 「絶対に離さない。」 「のぞ、マジで手離して。危ない。何をするか自分でも分からない。」 「こっわ!何をするか分からない人から手を離したら、普通に落ちるじゃん?」 「いや、だからしがみ付かれると怖いんだって。」 「怖いのは俺だから!」 「いや、絶対に俺だし!」 憎まれ口を叩きあいながら、がらんとした人気のないトイレに到着する。 背中を咲に摩られながら、空っぽな胃から無色な液体を吐き出す。 「ぜんぶ吐けた?」 「ごめん。汚くて。朝からずっと気持ち悪くて……。」 「保健室行く?恵さん車で来てると思うから、家で休んだ方がいいかな?」 「俺、すげえ格好わるい。」 「そんなこと気にしてなくていいよ。俺しかいないんだから。」 ―――いや、だからこそ気にしてるんだけど? 好きな人の前で醜態を晒すとか、初日から何をしているんだろうとへこむ。 泣きそうな表情を隠すように、咲の胸に額をぶつけた。 「咲とクラス離れちゃったね。」 「うん。」 「行ってもいい?」 「え?」 「咲のクラスに遊び行ってもいい?」 顔を上げて尋ねると、ふわっと微笑まれながら頭を撫でられる。 「いつでも。」 「うん!」 嬉しくなって抱き付くと、深いため息を交えながら背中に手を回してくれた。 咲の体温が心地よくて、安心できて、微睡んでしまう。 ―――咲ってすげえ気持ちいい。ふかふかのお布団みたい。 「人の気も知らねえで……。」 咲の舌打ちとともに聞こえた声は、俺の深すぎる眠りと一緒に消えていく。 再び浮遊感と一緒に、咲の体温を全身に感じた。 夕方になって咲と母親と保健医るまで、俺は目覚めることがなかった。
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