蛇に睨まれたオオカミ

30/51
前へ
/51ページ
次へ
咲 のぞがバーを見つめて、軽く助走をつける。 バーに近づくにつれてスピードが増して、体重をかけて踏み込んだ。 そのまま空に向かって身体がふわりと浮き上がると、バーからかなり高い位置を背中が通過した。 そして平行に身体を保ったまま、ゆっくりと着地する。 数秒で終わる僅かな時間だと言うのに、スローモーションのように優雅に見えた。 先月まではさみ跳びしか出来なかったはずなのに、今は1年で唯一背面跳びをマスターしている。 運動神経がいいというか、頭がいいというか、勘が鋭いというか…… のぞは頭で描いたイメージをそのまま具現化できる、そんな器用さを持っていた。 身体能力も然ることながら、運動神経のよさが抜きんでている。 つまり、脳から身体へと伝達する神経の働きがすこぶるいいのだ。 目で見たものをそのまま取り込み、自分のものにできる。 頭で描いたことをそのまま実践できる人間はとても稀で、もちろん俺はその中には入れない。 センスも器用さもないから、練習量だけが俺の取り柄。 格好いいってのぞに褒めてほしくて始めたバスケなのに、いつしか本当に好きに変わっていた。 のぞに唯一勝てるのがバスケだけれど、手を抜けばすぐに追い抜かれそうで怖い。 のぞと一緒にいる時間はもちろん大事だけれど、俺の唯一の取り柄を手放したくない。 そうしないと、のぞの隣に並ぶ人間としてあまりにも不甲斐なさすぎるから。 でも、今の跳躍を見てすごいと思うのと同時に、自分が惨めに思えた。 どんなに努力を重ねても、俺の遥か頭上を軽々と飛び越えていきそうだから。 「すげえ……。羽が生えてるみたい。」 俺が思わず感嘆の声をあげると、のぞが恥ずかしそうに微笑みながら俺の隣に座る。 今日は陸上部の初めての記録会。 種目ごとに集まり、3年が中心になってまとめていた。 ただの記録会で部活の延長だから、大して盛り上がるイベントではない。 それでも土曜日の朝早くにもかかわらず、陸部と関係ないギャラリーがいることに、もはや驚きもしない。 のぞがいるだけで、そこはイベント会場に変わるのだから。 アップを済ませて軽く跳んだところを見ただけだが、容易く3年の記録も越しそうだ。 みんな全日本中学校陸上競技選手権大会を目指しているはずだけれど、のぞは端からやる気がない。 朝練は絶対にでないし、部活も手を抜いているのを知っている。 やればトップを目指せる実力があるのに、なんでこうもやる気がないのか不思議でならない。 「へへ。先輩にも筋がいいって褒められた。」 嬉しそうに笑いながら、練習も1回で終えてしまった。 1年生は緊張した面持ちで踏み切る位置やフォームを熱心に練習している中、のぞだけが日陰で喋っている。 「のぞはマジでなんでもできるね?」 「ん?たまたま高跳び向いてたみたい。身長伸びればもっと跳べるんだろうけど、身体的には長距離が一番向いてるかな?」 「あー、ちっちゃい割にスタミナあるもんな?」 「あのさ?何度も言うけどちっちゃくないから。身長は成長グラフでド平均だし、咲が無駄にデカいだけだから。」 「ちっちゃいに対して、のぞって過敏に反応するよね。なんで?」 「小さい言われて喜ぶ男いないの、そろそろ覚えておいた方がいいよ?」 「器が小さい。」 「……喧嘩売ってんな?」 不貞腐れた表情を浮かべながら、のぞは目の前の短距離走を見つめていた。 先輩の走りを間近で見ても、のぞの走りに見慣れているせいか、なんの感動もない。 のぞの軽やかに走るフォームは、何度見ても美しい。 顔が美しいだけじゃなくて所作までキレイだから、のぞは何をやっても様になる。 その美しさを一目見ようと、のぞ率いる高跳びの前だけがギャラリーで賑わっていた。 「なんか、陸部って人気だよな?」 「は?」 「いや、土曜日なのにすげえ人いるじゃん?」 「だから、のぞを見に来てるんだろ?」 「俺?期待される程やる気ないのに?8月の全中に出るにはどっかの大会で参加標準記録ださなくちゃいけないらしくて、みんなそれに向けてがんばってるっぽい。」 「俺は全く出る気がないけれど。」と言わんばかりの他人事で、あっけらかんと話す。 こんなに手を抜いているのに勝てないのは、本気で向き合っている人間からしたら絶対に面白くないはず。 それでも、のぞの性格や見た目に絆されて、陸部でも蝶よ花よのお姫様扱い。 先輩たちが率先して競技の準備をしている中、のぞがやったのは先輩にタオルを手渡しただけ。 それでも「気が利くね。」と散々褒められ、「暑いから日陰で休んでなよ。」という気遣いに胡坐をかいている。 ―――ま、この顔を見たら、甘やかしたくなる気持ちは分からなくもない……。 「のぞも少しはやる気だしたら?」 「無理。暑いもん。せっかくの土曜日潰して、大会になんか出たくない。」 大して動いてもないくせに、火照った顔でちびちびと飲む姿に、思わず本音が洩れた。 「……ちっちゃくてかわいい。」 すると、あからさまに警戒したように見つめてから、困ったような表情で俯いている。 ちっちゃいもかわいいも、のぞにとってはNGワード。 なるべく言わないようにしているけれど、気を抜くと言葉に出している。 「……咲から見たら全員そうじゃん?」 「いや、身長がっていうよりも、全体的に造りが華奢な感じする。」 「だから、咲から見たら全員そうじゃん?」 「いや、まあ……そうなんだけど。」 俺を基準に見たら全員チビで華奢なのはその通りなんだけれど、のぞは特別繊細な気がする。 それに、のぞ以外をかわいいと思ったことがない。 ―――それは、俺がのぞを守りたいと思っているからだろうか……? 刷り込み効果なのかもしれないけれど、自分以上に大事な存在なのは確か。 小さくて脆い存在だから守りたいのか、大好きなのぞだからここまで大事なのか…… 自分の感情にはっきりと気がついてからは、きっとどちらも正解な気がする。 「じゃ、あとでな。」 そう言いながら立ち上がると、ゆっくりと肩を回し始める。 「……脱ぐの?」 「当たり前じゃん。てかみんな脱いでるのに、俺だけジャージで暑すぎる。」 そう言って、ジャージのファスナーを下げてしまう。 短めの丈のタンクトップから、キレイな縦長のおへそがちらりと見えた。 筋トレとは無縁だから、滑らかな白い肌が太陽に映える。 そのまま肩からするりとジャージを脱ぎ捨てると、華奢な肩が現れる。 首筋から続く鎖骨から肩までのラインが、繊細で美しい。 背中は細すぎる腰のラインが丸見えで、見ているだけでヒヤヒヤする。 「のぞはそのままでよくない?十分跳べるから。」 「俺のユニフォーム姿は見るに堪えないって?」 そう言って笑いながら、ズボンもするっと脱いでしまう。 薄い上半身の割に筋肉質な脚は、のぞの努力の賜物。 変質者から逃げるために鍛えられたその脚は、本来の脚線美の他に機能美も兼ね揃えていた。 のぞから受け取ったジャージを畳みながら、俺の視界はかなり狭まっている。 屈伸をするのぞから視線を外し、遠くの鉄棒を見ることに専念する。 防御力0のユニフォーム姿に、心臓が痛いくらいに跳ねている。 ―――見たいけど、絶対に見れない。それに、誰にも見せたくもない……。 「……どこ見てんの?」 「鉄棒。」 「は?意味分かんない。」 そう言いながら頬を手で挟まれて、無理やり視線を合わせてきた。 「俺の跳躍を見に来たんじゃないの?」 「そうだけど……。」 「じゃあ、カメラ小僧に任命します。陽兄に送るから真面目に撮れよ。」 「無理。」 「なんで?」 「……撮るの下手くそだから。」 「そんなにおっぱいがいいのかよ?」 「え?」 「ま、男見ててもつまらないもんな……。」 「ちが、そうじゃなくて!!」 のぞの的外れな勘違いを否定しようと顔を上げると、間近でのぞを見てしまった。 太陽光の下で煌めく瞳がより一層美しく、柔らかな髪が風に靡かれ空に透ける。 視線を下げると、短すぎる丈のズボンから、きれいな太腿が伸びていた。 ―――うっわ……きれい! 全身を優しく撫でられたような感覚に身震いし、思わず俯く。 「ま、いいや。」 「え?」 「他の奴に頼むからいい。咲はひとりで楽しんでれば?」 そう言って、スタスタと歩き出してしまう。 「ちょ、待って!」 「何?」 「俺が撮るから!!」 「いいよ。おっぱい盗撮された画像見てもキショいだけだし。」 「んなことしない!!」 「よそ見すんなよ?」 「……はい。」 不敵に微笑みながら、さっきとは明らかに違う雰囲気を纏った。
/51ページ

最初のコメントを投稿しよう!

130人が本棚に入れています
本棚に追加