蛇に睨まれたオオカミ

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電車とバスを乗り継ぎ、江の島に着いた頃には既に太陽は頭上から容赦なく降り注いでいる。 鎌倉に立ち寄り、生しらす丼で腹ごしらえを済ませ、小町通りで買った大量のお土産をリュックに無理やり詰め込み、ようやく今日の目的地である海に辿り着いた。 サンダルが砂浜にめり込み、額を伝う汗の量は尋常ではない。 逃げ場のない太陽の攻撃をもろに喰らいながら、風の強さに目を細める。 夏休みということもあり、砂浜は人で埋まっていた。 家族連れというよりも、カップルや単体客が多い。 ビキニ姿の女性に片っ端から声をかける肉食獣の横を、のぞが無邪気に横切っていく。 すれ違った誰もがのぞのことを振り返り、老若男女の視線をかっさらいながらも、のぞが見つめる先は海。 「すげえ!海だ!!!」 のぞは人混みなんて見えていないのか、砂浜の上だと感じさせないスピードで、まっすぐに海に向かって駆け出していく。 「のぞ、帽子飛ばされるから!!」 「咲!!早く!!!」 そう声をかけたのに、のぞは目の前の海しか映していない。 軽快に進むのぞの背中を必死に追い駆けていると、突風が身体を包み込む。 そのままのぞの帽子を空高く巻き上げ、俺の手元にまっすぐに落ちてきた。 「……はしゃぎすぎ。」 「ごめん。」 のぞの帽子を頭に深く被せて、ずっとキラキラと嬉しそうな笑みを浮かべるのぞに尋ねる。 「日焼け止めちゃんと塗った?のぞ肌弱いから。」 「軟弱な肌をこんがり焼きに来たぜ。」 「いつも赤くなるだけなんだから、ちゃんと塗りな?」 カバンから日焼け止めを取り出し、白い肌に隙間なく塗りこむ。 のぞは待ちきれない様子で、その場でずっと足踏みをしながら、早く早くと口だけは一丁前に急かしてくる。 「見て見て?めっちゃキラキラしてる!」 そう言いながら瞬きを繰り返すのぞの緑色の瞳が青を映し、塗料では表せないほど美しい色をしていた。 どんな綺麗な景色よりも、のぞが一番輝いて見える。 「うわっ……!」 「あぶな!!」 はしゃぎすぎて濡れた岩場に足を滑らせ、慌てて背中を向けて抱えたところを、大きな波が腰まで押し寄せてきた。 俺が壁になったお陰でのぞは無事だが、俺は下半身ずぶ濡れ。 ため息を吐きながらのぞを見ると、不安そうに見上げてくるから、手を振って笑みを浮かべる。 「ご、ごめん。」 「いいよ。この天気ならすぐ乾くから。でも、岩場は滑るから走るなよ。」 「あー、こっそり水着もってこればよかったな?」 「胡蝶家出禁になるようなことするの、絶対にやめてくれる?」 「咲は水着持ってこないの?」 「これ水陸両用の……。」 「え!?一人だけズルい!!」 「のぞはしゃぎすぎてこんなことになるだろうって思ってたし、乾くの時間かかるの怠いから。」 「Tシャツ脱がないの?綺麗に焼けないよ?」 「俺に綺麗さは誰も求めてない。」 そう言っているのに、のぞが俺のTシャツの裾を掴む。 「いや、脱がないから。」 のぞの手を掴んで止めると、のぞは不服そうに見つめてくる。 「脱げよ。男だろ?」 「ギリ男ののぞに言われたくない。」 「俺は脱げるもん。」 そう言いながら本当に脱ごうとするから、慌てて裾を直す。 「脱ぐな!絶対に脱ぐなよ?」 「あーあ。せっかく夏休みなのに、今年もなんの思い出も更新されないまま終わるんだろうな……。」 さっきまであんなにはしゃいでいたのが嘘のように、砂浜にどかっと座ると、俺を恨めしそうに睨んでくる。 「……海来たじゃん。」 「それは嬉しいけど、せっかく来たのに見てるだけって拷問じゃん?」 確かに、砂浜は焼けるように熱いし、肌に張り付く髪の毛は既にじゃりじゃりとパサついている。 目の前の冷たい海に飛び込めば気持ちがいいのは分かっていても、胡蝶家を敵に回すわけにはいかない。 今回だって水着にはならないこと、服を濡らさないことを絶対条件として、渋々受け入れてもらえたのだから。 邪な感情を抱きながら傍にいる身として、これ以上の信頼を裏切るわけにはいかない。 「毎年豪華な温泉とか、海外にも数えきれないほど行ってるじゃん?」 「だって、つまんないんだもん。いっつも部屋風呂だから大浴場とかサウナとか行ったことないし、ほとんど部屋から出してもらえないから軟禁状態。海外行ってもほとんどホテルの中に缶詰だから、バカンス感全くないし……。」 「のぞは犯罪に巻き込まれやすいんだからしょうがないだろ?初めての海外でベビーカーのまま誘拐されそうになったって、青い顔した恵さんから聞いたことある。」 「まあ昔は天使のように可愛かったから。」 膝を抱えた姿勢で、遠くの海をじっと見つめている。 横顔はぷっくりした頬があどけなさを残しているが、すっきりとした鼻筋や柔らかそうな唇は大人の色気を含んでいた。 のぞの性格や喋り方を見ればまだまだ幼いなって分かるけれども、美しすぎる顔面は大人びて見える。 そのギャップが逆にエロいというか、そそられる要因になっている気が気ではない。 「今だってのぞは可愛いよ。」 「……俺もそのうち、男になっちゃうんですけど?」 「は?ずっと男じゃん。何言ってんの?」 意味が分からず聞き返すと、深いため息を吐きながら肩に顎を乗せてくる。 「俺が筋肉ムキムキの色黒になったらどうする?」 「ボディービルダーでも目指してんのか聞く。」 「それでも、咲はいいの?」 「何が?」 「一緒にいてくれるの?」 じっと泣きそうな目で見つめられて、思わず吹き出した。 のぞが色黒になるところも、筋肉隆々になった姿も全く想像できないけれど、のぞの成長は待ち遠しい。 でも、それと同時に怖くもある。 今ですら、隣で歩くことが恥ずかしく思う瞬間が何度もある。 同じ制服を着ているから許されているだけで、大人になったのぞの隣に並ぶのが俺ではあまりにも不格好。 わざと聞こえるような悪口を言われた経験も、一度や二度ではない。 のぞと俺が不釣合いなんてこと、俺が一番よく分かっている。 それでも、一緒にいたいと思っている。 なにを言われても気にならないくらい強い人間に、のぞの隣が相応しい人間になりたい。 「のぞが嫌になるまでは一緒にいるよ。」 「俺が嫌にならなかったら?」 「そしたら、互いにじじいになっても一緒にいるだろうね。きっと、くだらない話しながらお茶飲んでるよ。」 のぞの年老いた姿が頭に浮かび、思わず笑ってしまう。 まだ大人にすらなっていないのに気が早いなと思いながらも、その時まで一緒にいられたら幸せだ。 幸せ過ぎて、もう何もいらない。 「じゃあ、あと100年は一緒にいられるね。」 「……いくつまで生きるつもりなの?」 「あ!絶対に俺より早く死なないでね?咲はいっぱい長生きしてね?煙草はダメ。酒は少量。毎年人間ドッグ行ってね。」 そう言って捲し立てると、ふにゃっと甘えたように微笑む。 「まあ、のぞよりは1秒でも長く生きなくちゃなって思うわ。」 「なんで?」 「もう、絶対にひとりで泣かせないから。」 「……うん。」 のぞの柔らかな髪を耳に掛けて、そう決意を固めた。
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