蛇に睨まれたオオカミ

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望海 小学校から帰ると、咲の家にお邪魔するのが日課になっていた。 いつものようにリモートでの習い事を終えて、新しく買ってもらったゲームを手に鼻歌まじりで咲の家に向かう。 幼稚園に入る前からの仲だから、自分の家のように気兼ねしない場所。 リビングにいるおばさんに挨拶をして、いつものように2階にあがり、軽くノックして扉をあける。 すると痛々しく腫れあがった咲の頬を見て、言葉が喉の奥に引っ込んだ。 喋ることすら痛々しそうで、頬に氷嚢を当てながら顔を顰めている。 「さ、咲?その顔どうしたの!?」 「なんでもない。」 「すごい怪我してるじゃん!誰に殴られたの?」 「大したことない。骨折れてなかったし。」 そう言いながら視線を逸らされ、胸の奥がじりじり痛む。 「……ごめん。ごめんね。」 そっと指先に触れると、拳も紫色に変色していた。 咲に虐められていると泣きついてから、一週間が経った。 毎日毎日喧嘩をしているから、癒える前に新しい生傷が増える。 目の下に赤紫色の痣ができていて、手足にも数えきれないくらいに擦り傷がある。 痛々しい傷跡に、見ているのも辛い。 俺が泣いても意味がないのに、痛いのは咲のほうなのに、溢れ出る涙が止まらない。 「のぞは今日キスされてない?」 「……咲が蹴っ飛ばしてくれたから。」 「よかった。全然痛くないから大丈夫だよ。」 強がっているのは見え見えで、口の中も切れているのか顔を歪ませながらボソボソと話す。 「俺のせいで喧嘩してるんだろ?6年相手に敵うわけないじゃん!なんで逃げないの?」 「あいつはのぞにキスしたんだろ?殴られて当然だし。」 俺の身体には、傷ひとつない。 抉られるのはいつも心臓の奥にある柔らかいところだけで、誰かに殴られた経験は一度もない。 だから、咲が感じる痛みは分からない。 言葉では通じないから泣くしか出来なくて、抵抗すると酷くされるから抗うことすら諦めていた。 何も感じないように無になることでしか、自分を守れない。 それなのに、咲はこんなに痛い思いをしてまで俺を守ろうとしてくれたことが、胸が苦しくなるほど嬉しかった。 ―――もう、十分だよ。 「もう大丈夫だよ。」 「え?」 「キスなんて挨拶だから大丈夫。俺のこと見て?怪我なんてしてない。どこも痛くない。だから大丈夫。」 咲がこんなに傷だらけになるなんて、想像してなかった。 誰にも相談できなかったから、愚痴を言うくらいのつもりだった。 それなのに、俺のせいで咲が傷つけられているのを黙って見過ごすことは出来ない。 痛々しい程腫れあがった顔を見つめているうちに、気持ちが冷える。 「だから、もう喧嘩しないで。」 「嫌じゃなかったの?」 「大丈夫。困ったら先生に言うから。」 咲を安心させるために微笑んだのに、肩を思い切り掴まれた。 「大丈夫じゃないのに、大丈夫なんて言うなよ!!」 「咲?」 「のぞにキスするなんて絶対に許さないから!のぞのこと傷つける奴は俺が全員殺してやる!!」 大声でそう怒鳴ると、怖いくらいに視線が尖る。 今までこんなに怒った表情を見たことがなかったから、怖いというよりも驚いた。 「だって、自分よりデカい人間に敵うわけないじゃん?」 「別に勝てなくていい。」 「え?」 「のぞ泣かせたら俺に蹴り飛ばされるって分かれば、それでいい!負けても殴られても、そんなのどうでもいい!のぞを泣かせるやつは、俺が絶対に許さないから!!」 そう言って大声で怒鳴るから、胸がざわざわする。 だいすきがどんどん溢れてくるから、息ができない程に胸が苦しい。 ―――俺だって、なにもしないで見ているのはイヤだよ。 震える指先で咲の首にしがみ付きながら、覚悟を決める。 「のぞ、怖いの?」 「今度は俺も一緒に行くから。」 「え?」 「咲と一緒に喧嘩する!やられっぱなしは嫌だから、ちゃんと嫌だってはっきり言う。」 「ダメ!!!」 「え?」 「のぞは絶対にダメ!喧嘩しちゃダメ!怪我しちゃダメ!」 「な、なんでだよ?俺のせいで咲が喧嘩してるんだろ?」 「のぞは可愛いから、絶対に傷つけちゃいけない。大事なもんは傷つけちゃいけないって、男なら守ってやるんだって、父さんが言ってた。のぞには俺がいるから、今度は絶対に俺が守るから、心配しないでいいよ。」 そう言いながら頬を撫でられて、じっと見つめられる。 赤黒くなった頬の傷を見つめながら、居た堪れない気持ちになった。 自分はこんな傷だらけになっているのに、何もするなって…… そんなに俺って頼りないの? 咲はいつも俺の心配ばかりしていて、少しは自分のことを大事にしてほしい。 「……咲は傷だらけじゃん。」 「のぞだって傷だらけだよ。」 「どこも怪我してないよ?」 「ここ痛かったんだろ?大けがしてる。」 そう言って心臓を指で軽く押されて、抱きしめられた。 「俺は見えるとこが痛いだけ。こんなのすぐに治るよ。のぞは見えないところ大けがしてる。ここはなかなか治らないから、いっぱい優しくして大事にしないといけないって母さん言ってた。痛かったんだろ?」 泣きそうな表情で見つめられて、ボロボロと涙が零れた。 「ひっ……痛い思いさせて、本当にごめんね?ど、うしても……咲に助けほしかった。男が怖い。触られるの怖い。キスされるのも、ちんこ握られるのも全部イヤだ!全部イヤなの!!」 「分かってるよ。気がつけなくてごめんね?」 「咲なら絶対に助けてくれるって、知ってるから。」 「絶対に助けるから、のぞはもう怖がらなくていいよ。それに今日は勝った。」 ここまでやられておいて、勝ちも負けもない気がする。 それでも誇らし気に笑っている咲につられて、泣きながら笑ってしまった。 「咲は本当に強いね?」 6年相手に敵うはずなんてないのに、身体の大きな相手にも果敢に挑んでいく。 その勇敢な背中を誰よりもよく知っているから、余計に怖くなる。 「ダメだからな?」 「何が?」 「好きじゃない人とキスしちゃダメ。結婚式まで取っておいてね。」 唇に、咲のひとさし指が軽く触れる。 俺と違って指の皮膚が硬くて、感触を確かめるようになぞられると、胸のざわめきが大きくなる。 無理やりキスされても不快以外の感情が込み上げてこなかったのに、咲に指で優しく触れられただけで、腹の奥が引き攣ったように疼く。 股間を弄られている時と同じように、お腹の辺りがゾクゾクして顔が熱い。 「や、咲……。」 「のぞ、かわいい。すっげえかわいい顔してる。もっと触っていい?」 「くすぐったいって……。」 恥ずかしさを隠すように指先を噛むと、咲がぎょっとしたように引き抜く。 「ごめん。痛かった?」 「かわいい。」 「え?」 「のぞはちっちゃくて、すげえかわいいね?なんでこんなに柔らかいの?」 ぎゅうぎゅうと苦しいくらいに抱きしめられながら、ベッドに2人でごろんと転がる。 咲の匂いで包まれているベッドの上で、咲の腕に抱きしめられていると…… もう、何も怖くない気がする。 「咲がデカいだけ。」 俺の方が誕生日が早いのに、誰がどう見ても咲の発育のほうがよかった。 幼稚園の頃から身長も体重も平均を大きく超えていて、早生まれには絶対に見えない。 おじさんもおばさんも身長が高いから遺伝だとは分かっても、母親似の俺は妬みしか感じない。 でも、咲にはずっとかわいいと思ってもらいたい願望も、その頃からずっとある。 ずっと小さいままでいられたら、ずっと弱いままでいられたら、咲にずっと傍にいてもらえる気がしたから。 不平等な友情はそのうち破綻してしまうだろうと危惧しながら、何かあった時に一番に頼りたくなるのは咲だった。 矛盾した気持ちを抱きながら見上げると、咲もじっと見つめているのに気がついた。 「どうしたの?」 「え?」 「顔あかいよ。痛みで熱がでたのかな?」 そのまま額をコツンと合わせると、身体を後ろに思い切り仰け反るから、後頭部を壁に激突した。 「……すごい音したけど大丈夫?」 コブでも出来てるんじゃないかと後頭部に手を伸ばすと、咲は慌てながら壁側に背中を寄せる。 「なんでちんこ触ってんの?」 「え、あ……ムズムズしたから。」 「咲もちんこ掴まれたの?痛い?」 「いや、違う。そのうち収まるから。」 「見てあげようか?」 「え?」 「自分だと見えなくない?」 「だ、大丈夫!気にしないで……。」 「咲のは怖くないよ。」 「え?」 「咲にはどこ触られても怖くない。」 「触っていいの?」 「どこ触りたいの?」 「……おっぱい。」 「肌着で隠れるとこは、陽ちゃんとママがダメって言ってた。」 「なんで?」 「大事なとこだから。」 「6年にはちんこ握られてるのに、なんで俺はダメなの?」 「約束破るとチョコ食べられなくなるから。」 「それは困るね。のぞはチョコ大好きだもんね。」 「絶対いや。だから絶対に触らないで。」 咲がちんこを撫でるのを見守っていると、部屋の扉が勢いよく開いた。 「買い物行くけど、なんか欲しいも……。」 おばさんが扉を開けると、咲をじっと見つめてから思い切り声を張る。 「こんのエロガキ!のぞくんに何してんの!!!!」 「勝手に入ってくんなよ!!」 「のぞくん、こっち来なさい!!」 「なんで?」 おばさんに腕を力強く引かれ、なぜか背中に庇われる。 「男とベッドにいると危険だよ。すぐにパンツ脱がされるからね。離れていなさい。」 「あの……おばさん、ごめんなさい。」 「な、なにが?うちのバカが既に何かご無体なことをやらかしたの?」 「咲の怪我、ぜんぶ俺のせいだから。」 紫色に変色した痛々しい傷を見つめながらそう謝ると、おばさんはおかしそうに笑いながら髪を撫でる。 「のぞくんのせいじゃないでしょ?どっかのマセガキがのぞくん虐めたから、うちのバカがそのマセガキを殴っただけ。」 「でも!」 「のぞくんのせいじゃないよ。相手の子にも怪我させちゃったからカタチだけ謝りに行くけど、本当は謝る気なんてさらさらないから。のぞくんと咲のこと信じてるもの。あんた達は悪いことしてないって信じてる。他にいやなことされてない?」 「大丈夫。」 「華奢なのぞくんと違って咲はすっごく頑丈に出来てるから、心配しなくても大丈夫。あの怪我は名誉の勲章だから、すぐに治るよ。痛いことや怖いことされたら、先生やママには内緒にしたくても咲には言ってね?のぞくんのこと絶対に助けてくれるよ。」 「わかった!」 「……さっさと買い物行けよ。」 「行くのやめま~す。」 「は?」 「恵ちゃんに申し訳がたたないから、リビングで遊びなさい。」 そう言って咲の腕を掴んで、部屋から追い出す。 「邪魔すんなよ。」 「避妊の知識もないクソガキのくせに、何言ってんの?あんたには10年早いよ。のぞくんに触っていいか了承を得るまでは、絶対に許さないからね!」 「痛い思いしたんだから、ちょっと触るくらいいいじゃん。」 「ど、どこ触ったの?」 「言わな~い。」 「言いなさい。」 「言わない!」 「夕飯減らすよ?」 「絶対に言わない!!」 咲の背中を見つめているうちに、気持ちが昂る。 広い背中に飛びついて、思い切り抱きしめた。 「痛い思いばっかさせてごめんね。いつも守ってくれてありがとう。」 「うん。」 「……だいすき。」 「うん。」 「咲、だいすきだよ。」 そろそろだいすきという言葉が、気恥かしくなってきた頃。 幼稚園時代は挨拶のように毎日伝えていた気がするのに、咲への気持ちに気がついてからは言葉にするのが躊躇われる。 それでも、あの日は伝えたいと思った。 面と向かっては言えなくても、背中に向けてなら許される気がして……。 ごめんねとありがとうを兼ねた、友情以上のだいすきという言葉を。
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