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子どもの頃から、俺は少しも成長していない。
いつまで経っても弱虫で、泣き虫で、咲におんぶにだっこ状態。
あの時のような大怪我は、もう絶対にしてほしくない。
なるべく自分で解決をしたいところだけれど、どうすれば解決するのかよく分からない。
対処法も思いつかないから、おがっちに言われたように声をかけられたら即ダッシュを繰り返した。
今日も同じように先輩から逃げながら、いつまで続くか分からない鬼ごっこに既に飽きていた。
できるなら、咲の隣にいることが許されるくらいの、強い人間になりたい。
並んでいても不釣合いすぎて、友達にすら見えないことが悔しい。
保護者だと言われたと愚痴っても、咲は大して気にした様子がなかった。
咲すらも保護者の気持ちでいるのかと思うと、余計に虚しい。
俺だけが咲の隣にいたいと思っているんじゃないかと思うと、虚しさを通り越して怒りすら感じた。
いつまでも守ってもらってばかりじゃなくて、守ってあげられるくらいの対等な関係になりたい。
息を切らしながら追ってくる先輩をじっと見つめて、ぴたりと足を止めた。
いつもは複数で話しかけてくるけれど、敵は今日は1人。
体格差は確かにあるが、年齢で言えば2つ上。
咲が6年生に挑んでいたのに、俺だけ逃げ回るしかないのはやっぱりおかしい。
弱虫を卒業して咲の隣にずっといたいから、俺も戦いたい。
「あれ、逃げないの?」
いつものように追いかける気満々だったからか、俺が足を止めると不思議そうな表情を浮かべながら見つめてくる。
「先輩は何がしたいんですか?」
「あー、男かどうか確認したい。」
「だけ?」
「だけ。」
「わかった。」
このまま終わりの見えない鬼ごっこを繰り広げるより、それで解決するならそのほうがいい。
俺ひとりでもちゃんと解決できることを、咲がいなくても自分でなんとかできることを証明したかった。
咲は俺の保護者じゃなくて、友達なんだと。
面倒なお荷物じゃなくて、堂々と肩を並べていられる理由が欲しい。
「いいの?」
「胸見せればいい?」
「うん。」
「確認したら、追い駆けて来ないでくださいね。」
そう念を押してから、人気のないトイレの個室に入る。
部活が始まっている時間だから、賑やかな校庭や体育館と違い、校舎内は静まり返っていた。
俺のことをまっすぐに見つめる先輩の視線にたじろぎながら、視線を合わせずにシャツを捲る。
「これで納得しました?」
そう問いかけると、先輩にシャツの裾を首まで持ち上げられる。
「な、なに?」
「ピンクの乳首、すげえ可愛いね?」
息がかかりそうな距離でじっくり見られると、膨らみがないのは分かっていても気色悪い。
「男だって分かっただろ?もうおしまい!」
「やっぱり、女子じゃね?」
「え?」
「綺麗すぎるじゃん。下も見せて。」
そう言いながら勝手にベルトを外され、チャックを下ろされる。
それ以上は触られたくなくて自分でパンツを下ろして股間を見せると、すぐに穿きなおす。
「ついてただろ?」
「毛はやっぱりまだなんだ?」
「どうだっていいじゃん!」
そう言って出て行こうとすると、肩を掴まれる。
「精通はきた?」
「え……まだだけど?」
「弄ったことくらいはあるだろ?」
「そんなことしない。」
手首を掴まれてじっと見下ろされると、全身の毛穴から汗が噴き出す。
爪が肉にめり込むようにきつく掴まれて、狭い個室でやたら荒い息遣いの先輩を見上げる。
「な、なに?」
「気持ちいいことしてあげよっか?」
その先輩の顔が、あの時の蛇男の表情と重なった。
俺を見下ろして愉しそうに微笑む口元、触られた時の指の動きや嫌悪感をはっきりと思いだす。
閉塞感を覚えるトイレの個室で、呼吸ができないほど息苦しい。
ネクタイを緩めて喉の前を寛げると、勘違いした先輩にボタンを外される。
「キッショ!!!」
膨らんだ股間を思い切り蹴り飛ばして、急いで個室を抜ける。
全身が粟立っていて、足がもつれそうになりながらも階段を駆けあがった。
職員室の扉を勢いよく開けると、目の前におがっちの顔。
ちょうど出て行こうとしたところだったのか、俺を見て驚いたように見つめている。
でも、ネクタイやベルトが弛んだ姿を見て、表情を硬直させた。
羽織っていたジャージを肩にかけられ、無言で進路指導室まで背中を押される。
「どうした?」
「蛇が……。」
「蛇?」
俺のことを心配そうに見つめてくるおがっちに、大泣きしていた咲の表情が重なる。
自分でなんとかしようと思っていたのに、結局なにもできていない。
咲に赤ちゃん扱いされるのは当たり前で、なにもできない自分に嫌気がさす。
「あー、ええと……なんでもない。大丈夫です。」
そう言って軽く笑いながら、椅子に浅く腰をかけて制服を正した。
「胡蝶?」
「何でもない。蛇は見てないから、大丈夫。」
「蛇?」
「キッショい蛇。」
自分で変なことを口走っている自覚はあるが、胸の鼓動が早すぎて息が苦しい。
頭がまったく動かないのに、鼓動だけ全速力で走っているように落ち着かないのが不思議だった。
「連れ込まれたのか?誰に?」
「ねえ、いつまで逃げればいいの?」
「え?」
「俺はいつになったら、みんなと同じ普通の男になれるの?なんで俺だけ女みたいな顔なの?なんで俺だけ仲間外れするの?」
毎日毎日飽きもせず追いかけてくる先輩に、逃げるしか選択できない自分が嫌だ。
捕まったら負けなのは分かっているが、逃げきったところで俺に勝ちはない。
逃げても逃げても追いかけられて、身体よりも先に心が疲れてしまった。
「……逃げるの疲れた。俺だって戦いたい。どうすればいいの?」
「保健室行こう。」
そう言って肩に触れられた瞬間、思い切り突き飛ばしていた。
「触んなよっ!!」
自分でも驚くほど大きな声で叫んでから、尻もちをついたおがっちの顔を見て頭がさらに混乱する。
この人は大丈夫だと頭では分かっているのに、この人にも蛇がついてるのかと思うとダメだった。
「あ、ごめ……。」
手を伸ばして起こしてあげたいのに、指先が震える。
隠すように腕を組んでから、その場にしゃがみ込んだ。
「今野呼ぶから、座ってなさい。」
「咲には言わないで。かやちゃん呼んで。かやちゃんがいい。」
「わかった。」
保健医とカウンセラーを兼ねているかやちゃんの名前をあげると、おがっちが深く頷いた。
何もなかったかのように腰をあげて出て行こうとするから、慌てて声をかける。
「あの……おがっち、ごめん。突き飛ばしてごめんね?先生のことだいすきなんだけど……。」
「謝らなくていい。西島先生、ちょっとお願いできますか?」
緊張した表情のにっしーがおがっちの代わりに顔を出し、俺の傍にしゃがみ込む。
狭い部屋の中で、男と2人でなんていたくない。
にっしーの汗の匂いがして、嫌悪感で頭がクラクラする。
「大丈夫か?」
「にっしー出てって。かやちゃん以外に会いたくない。」
「今野呼ぼうか?」
―――どいつもこいつも、咲に俺の面倒を押し付けやがって……!!
「胡蝶?」
「咲には絶対に言わないで。咲に関係ない。俺の問題だから。」
しばらくすると怖い顔をしたかやちゃんが顔を出し、俺の顔を見るなり抱きしめてくれた。
柔らかな肌の感触、女性の甘い香水の匂い、俺よりも小さな身体に包まれているうちに、尖っていた気持ちが少し和らぐ。
華奢な肩に顔を埋めて、思い切り深呼吸をする。
さっきまで寒気すら感じていたのに、急にのぼせたように全身から汗が噴き出し、フルマラソンでも走ったかのようにぐったり疲れていた。
「もう、大丈夫だよ。」
「迷惑かけてごめんね。」
「迷惑じゃないよ。いつでも来ていいんだよ。男ばかりのこんなむさ苦しいとこいる必要ない。教室も部活も嫌なら行く必要ないよ。保健室行ってお茶飲もうよ。この前奮発して買ったクッキーでも食べて、ふたりでのんびりしよう?」
「……うん。」
かやちゃんに手を引かれて保健室に向かい、咲の部活が終わるまでベッドに転がる。
消毒の匂いに満たされた清潔な保健室で、無機質な天井を見つめても、頭が冴えて眠れない。
気持ちが昂っていて、でも身体はすごく疲れていた。
ゴロゴロと寝返りを打っていると、視界が滲む。
―――俺はいつまで、こんなことしてんだろ……?
いつになったら普通の男になれるのか、いつになったら男に追いかけまわされないのか……
グルグルとそんなことを考えていると、悔しくて涙が溢れた。
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