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「……それでね、その理由っていうのが」 「あ? ああ」 「嫌ねえ聞いていなかったの?」 「ああ、あまりにも今日の煮込みが美味しすぎて」 「良かった! そう今日はお野菜がいい感じで市場に出ていてね。それでそこでスティーブンスさんの奥さんのご実家のメイドさんと顔合わせたのよ」 「へえ」  ハロルド・スティーブンスは俺の勤める会計事務所の同僚だ。  学校時代からの一つ上の先輩でもある。  ただ彼はおっとりとしたところがあって、途中で一年留年した。  だが両親もやっぱりおっとりした人々だったので、一年くらいは大したことはない、と逆に数少ない友人と同じ学年になったことを喜んでいたくらいだ。  実際その数少ない友人としては、よく家に呼んでもらった。  そこで彼の母親の手料理を御馳走してもらい、当時給費生で常に腹を空かせていた様な俺はまあこの時とばかりに味わわせてもらった。  この母親というのが、実によくできた人だった。  料理もそうだが、メイドも住み込みが一人しか居ない様な家で、家事を完璧にこなしながら、貴婦人さながらの教養を持ち、時には金持ちのサロンへ呼ばれていき、詩の朗読やピアノを弾くことを頼まれることも多かった。  寮に居た頃、そんな母親の話を俺は彼から散々聞いていた。  そして休みになると、郊外にある彼の家にお邪魔するという繰り返しだった。  仕事に関しても、やや存在感の薄い彼の父親よりは、母親の方のつながりで今の会計事務所を紹介してもらっていた。  そして俺はそのまたつながりで雇ってもらえたのだ。  俺はともかく一人前に食えることが目標だったから、紹介してもらった事務所で一生懸命働き、資格の勉強もしていった。  おかげで、事務所の中でも今ではありがたいことに無くてはならない人材とされている。  そしてようやく余裕ができたところで、結婚話が出てきたのだ。
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