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ねぇ、そろそろ帰ってもいいかな? 一体いつまでこんな気持ち悪い部屋に閉じ込められないといけないんだい? どれだけ正気を疑われようとも、どれだけ言動が支離滅裂だと言われようとも、私が目にしたすべての真実を伝えたという事実は揺らがない。検査の結果に異常があると君たちは言うが、私に言わせれば君たちの認識に異常があると言わざるを得ないだろうさ! なぜこんな不気味な部屋で平然と笑みを浮かべ話しかけることができるんだ! 正気でないのは君たちだ! 実に悍ましい感性だ!!
――――はぁ、申し訳ない。君たちはただ真っ当に仕事をしているだけなんだろうね。八つ当たりをしていても仕方がない。私だって、すぐにでもこんなところからはおさらばしたいんだ。いいかい、もう一度だけ話してあげるけれど、これを最後に私は帰らせてもらうよ。いい加減、家内と娘が心配しているだろうからね。3つになったばかりなんだ、いっぱいおしゃべりしてくれてね。可愛くて仕方がないんだ―――――おっと、また脱線してしまったね。それじゃあ、本題に入ろうか。事の始まりは、ナルキス山の6合目で足を滑らせてしまったことだ。あの日は急に山が不機嫌になってしまってね。ニンフのいたずらにでもあったのだろうか――――ん? おいおい、思い出したくもない記憶を幾度となく掘り起こされているんだ。少しくらい詩人の真似事をしてもバチは当たらないだろう? ――――はぁ、わかったよ。ありのままの事実だけを話そう。
私は崩落の衝撃で暫くの間意識を失っていたらしいんだ。目を覚ましたときには、無線機は愚か高度計もコンパスすらもその意味を無くしていたね。調査隊の面々は当然のように誰ひとり居なかったさ。幸い、単身でマングローブをかき分けて、ピラニアの住む川を渡り、1週間ほどサバイバル生活をしたこともあったんだ。心細くはあれど、絶望感というものは感じていなかったね。
とはいえ、食料も燃料もその多くは岩肌や木々に打ち付けられて駄目にしていた。長い時間とどまって生き抜くことは困難だとすぐに悟ったよ。仲間たちがもし私を追いかけてきてくれればすぐに気がつくように、携行していたサバイバルナイフで――――奇跡的に傷ひとつなかったんだ――――目印を刻みながら、鬱蒼とした山林にかき分けていったよ。
異変に気がついたのは4日目の夕暮れだった。残り少なくなってきた干し肉をゆっくりと噛み潰して、唾液を飲み干し水分を補っていた頃かな。木々の隙間から朱色の空に立ち上る白煙を見つけたのは! 少しずつ底をつき始めた資材に、不安と焦燥に駆られていた私の心に希望が点った瞬間だったよ。それが、とてつもない絶望の狼煙だとは、当然ながら夢にも思っていなかったけどね。
ようやく仲間と合流できる! そう思い、枯れ木の様な足を懸命に動かしたよ。太陽が眠りについてしまう前に、薪が弾ける音を耳にできるまで近づきたくてね。しなだれる蔦を錆びつき始めたナイフで――――泥を拭う水すらなかったんだ――――ひたすら切り分けて突き進んださ。眠りについた原生動物を起こしてしまう危険性も脳裏によぎったけど、その時の私はとにかく人に会いたかったんだよ。
ようやくの思いで森を抜ける頃には、額から滴る汗が顔についた泥に混じって口に入ってきて気持ち悪かったな。でも、それ以上に目にした光景に圧倒されてしまってね。どんな景色が広がっていたと思う? ――――何度も聞いたから知っているだって? まったく、雰囲気が台無しじゃないか。そこはワクワクしながら問い返す場面だろう? ――――そこに広がっていたのは、一言で言い表すなら原住民の集落だったよ! 泥土を焼き固めて作ったらしい資材を敷き詰めて壁を作り、切り倒した木々の枝をなんとも器用に編み込んで作った屋根で覆い隠した住居がいくつも立ち並んでいたんだ。高度計がオシャカになっていて正確な数値は分からないけれど、少なくとも5000mは越えていただろうと思う。そんなところで生活をしている民族が居たなんて! これは間違いなく世紀の大発見になる。そんな心躍る興奮は、私の体に巣食う疲労という名の害虫を焼き尽くしてくれたね。
バチバチと弾ける焚き火の近くには、表面の汚れた大きな木の葉が数枚転がっていたんだ。鼻を近づけてみると、焼けた肉の香ばしい香りに混じって、うん。言葉にするのが難しいけれど、強いて言うなら、刺激臭かな?かすかに鼻を刺す様な香りが混じっていてさ。調査隊結成時に行った事前調査では、自生する植物の果肉にそういった刺激性のある成分が含まれている可能性が示唆されていたから、そのときは特に気にもとめなかったけど。
集落はいやに静かで、とにかく誰かと話がしたいという一途な私の思いは満たされないままに膨らんでいったよ。予め1人で過ごすと覚悟していたなら話は別だけど、予期せぬ事故で一人ぼっちになるのは私にとっても堪えたんだろうね。手近にあった泥レンガの居住区らしき建物に足を踏み入れてしまったんだ。誰か居ませんかー! なんて、口にしながらね。
屋内は明かりの一つもなかったから姿は見えなかったんだけど――――見えていればどれほど幸福だったろうか! ――――返事はすぐに帰ってきたよ。訛が酷くて意味を解しにくい上に、どうにも口ごもったような、水気のあるくぐもった声色だった。原住民だと思っていた彼らはとても紳士的だったんだ。私が喉の乾きを有していると知って、すぐに飲み物を恵んでくれたよ。頂いた水には本当に驚かされた。土いじりに優れた仙人が育てた桃の、いっとう甘い部分だけを絞った果汁のような芳醇な香りがジュワリと広がってさ。押し寄せてくる多幸感と人と話すことができた安堵感に包まれて、とうの昔に限界を超えていた私の意識は夢現の中に溶けていったんだ。
そうして、次に目を覚ましたときだ。思い出すだけでもこの目をえぐってしまいたくなる! 私は原住民だと思っていたソレの寝床に寝かされていたんだ。ベチャベチャとした、アンモニアにも劣らない不快な刺激臭を放つ青い液体が部屋中に広がっていた。思わず鼻を押さえた私の右腕にも! 何度も何度も何度も何度も、赤く擦れて血がにじむほどに擦って、ようやく青い液体は剥がれてくれた! 何が起こっているのか、飛び起きた私が目撃したのは、全てが青い色に包まれた室内だった。訪れたときは暗すぎて分からなかったのかもしれない。壁も、床も、天井も、水を飲んだ器も、何もかも! 見渡す限りの青・青・青だ! 余りに常軌を逸した光景に恐れをなした私は、もんどり打って壁に肩を打ち付けながら建物を飛び出したんだ。そこで、私が、みた、のは――――
(部屋の机をひっくり返し息を荒げる患者の喘鳴)
あぁ、申し訳ない……脳裏にあの姿がよぎっただけでも、全身にあの液体がまとわりついているような、ネバネバとした不快感と異様な刺激臭を感じてしまうんだ。ソレは、人の形をした青い液体の塊だった! 顔があるべき場所はのっぺりとしていて、青より蒼い球体が眼球の真似事をするかのように浮かんでいた。あの夜に器を差し出した右手に指はなく、直径30cmほどの筒状のゼラチン質が胴体から突き出したような形状だった。下半身に足と呼べるものはなく、ゼリーのようなブヨブヨとした歪な塊が地面と接地し体を支えているだけだった。ソレが放つ強烈な刺激臭は、私が寝起きに感じたものとよく似ていた。間違いない! コレは常軌を逸した純粋で無垢な悪意が生み出した、悪夢の一滴だ! 調査隊が探していた、自然界に存在しないはずの青い色素を持つ生き物というのは! 今私の眼の前に居る!!
はぁ、はぁ――――それから先は、君たちのほうが詳しいんじゃないかな?私は5合目の山小屋で憔悴し倒れ伏していたらしいね。私の着ていた服に残された悪夢の一滴の残滓を調査隊がゲノム解析したんだろう? この遺伝子構造は人工的に作り出された可能性がある。そんな推論まで飛び交っているらしいじゃないか。現物を見たのは私一人だけ、話を聞きたい人がたくさんいることも頷けるよ。でもね、私も1人の人間なんだ。私達は認識できる範囲の限界を定めて、その狭く限定的で哀れな世界で、すべてを知りえた気になって胡座をかいているだけに過ぎないよ。私にはわかる、わかってしまったんだ。
だから、この話はコレでおしまいにしてくれないかな。いい加減、気が触れてしまいそうなんだ! 私の話を聞いてくれたならわかるだろう? 私はいま、青い色を見るのが何よりも嫌なんだ!! だと言うのに、どうして! ここはこんなにも悍ましいインテリアなんだ! 壁も! 床も! カーテンも! 君たちのその服も!! どうしてすべてが青一色なんだ!?
(そばにある器具を倒しばらまかれる音)
はぁ――もう十分だろう? こんな所に居たら治るものも治らない。私は家に帰らせてもらうからね。早く帰って、娘に無事な姿を見せてあげなければいけないんだ。あぁ、長らく留守にしてしまった。今日は、めいっぱい一緒に遊んであげよう。彼女は最近トランプを覚えたばかりでね。ブラックジャックでも教えてあげようかな? 賭け事につながることを教えるなと、妻に怒られてしまうだろうか?
……なんだい? まだなにかあるのか!? ――――あぁ、そういえばそんな事を言ってたね。本当に大丈夫だよ、何もおかしなところはないから。大体、視力は両目とも2.0だったよね? どこに異常があるというのか、さっぱりわからないよ。もう良いだろう? 放っておいてくれ!
はぁ、本当に散々な経験だった
さぁ
はヤくかエろう
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