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言葉は何のためにあるのだろう。
自分の思いや考えを相手に伝えたり、相手の気持ちを知るため。
そんなの小学生でも知っていることだ。
でも、言葉を使いこなせていても難しいこともある。
30過ぎのいい大人が、どうやって夫と上手くコミュニケーションを取ればいいのか悩んでいるんだから。
「秀太郎? 起きてる?」
夫の部屋のドアをノックして声を掛けたけど返事はない。
やっぱり、もう家を出た後のようだ。
玄関の靴箱を開けて秀太郎のカジュアルシューズが1足ないのを確かめてから、彼の部屋の前に戻った。
部屋に鍵はかかっていない。掃除は私の仕事だから。
それでも一応もう一度ノックして、「入るわよ」と言いながらドアを開けた。
枕のへこみ、よれたシーツ。その上に無造作に脱ぎ捨てられた秀太郎のパジャマ。
ベッドには寝た形跡が残っているものの、部屋の主の姿は影も形も見えない。
「今日は一緒にモーニングを食べにいこうと思ったのに……」
簡単にベッドメイクをしながらため息が零れた。
寝室を別にしようと言い出したのは、意外にも秀太郎の方からだった。
『僕が夜遅く帰って来て、妊娠した涼香の睡眠を妨げたら悪いから』。彼は確かそんな理由を口にしていた。
ダブルベッドに寝ていた頃の私は、秀太郎に振り回されていた。
私は眠りが浅いので、仕事の関係で彼の帰宅が深夜になると必ず目が覚めてしまった。
冬は寒がりな秀太郎に掛け布団を奪われ、夏は暑がりな秀太郎のせいで冷房が効きすぎる寝室で私は布団にくるまって震える始末。
秀太郎が私より先に眠ってしまうと、彼のいびきと歯ぎしりがうるさ過ぎて何時間も寝付けなくなることもよくあった。
だから私も嬉々として彼の申し出を承諾したのだけど、まさか寝室を別にしたせいでこんなにすれ違うとは思わなかった。
秀太郎は以前は日曜日の朝はのんびり家でコーヒーを飲んだり、私と一緒に散歩を楽しむ人だった。
それが妊娠しているとわかった3か月ぐらい前から、何も言わずにフラッと出かけるようになってしまった。
正直、浮気じゃないかと疑う気持ちもある。妻が妊娠中に浮気する男は多いと聞くから。
でも、まさか秀太郎に限って……。
嫌な考えを頭から追い出すように首を振ると、私はメッセージアプリを開いた。
――父に呼ばれたから実家に行ってくるね
秀太郎にメッセージを送ったけど、少し待っても既読はつかない。
――秀太郎のラジオ、車の中で聴くからね!
私がスマホの画面を消して出かける準備を始めたのは、返信が来ないどころかメッセージも読んでもらえないだろうと諦めたからだった。
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