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望んだことだとは言え、妊娠したら途中下車できない電車に乗ってしまったみたいな恐怖があって、それが出産で終わりじゃなくて何十年も続く子育ての始まりなんだと思うと、嬉しいはずなのに涙が止まらなくて寝付けない日もあった。たぶんホルモンバランスの乱れのせいだと思うけど。
壁の向こうで高いびきをかいている秀太郎を憎らしく思うこともあれば、期待するから悲しくなるんだと夫をいないものと思い込もうとしたり。
でも、きっと妊婦は多かれ少なかれこういう孤独や不安と闘いながら十月十日を乗り越えるのだと、自分に言い聞かせて頑張ってきた。
それが今、賢斗の「辛かったな」の一言で、こんなに救われるとは!
「大丈夫だよ。俺が一緒に育てるから」
賢斗が突拍子もないことを言い出したから、溢れ掛けていた涙が一瞬で引っ込んだ。
「は? 何言ってるの? 賢斗はブラジルに帰るんでしょ?」
「俺がいつ帰るって言った? もうブラジルでの仕事も生活も全部引き上げてきた。俺の故郷は日本なんだ。もちろん気に入らないところもあるよ。この国の政治とかな。だけど、日本食はやっぱり俺の口に合ってるし、生まれ変わっても日本人に生まれたいと思う」
「私もそう思うけど……」
賢斗がずっとこのまま日本にいてくれるなんて、夢じゃないかしら。
「日本に帰って来て何の仕事をするつもり? まさか一生働かなくてもいいぐらいの富を築いたんじゃないわよね?」
「まあ、それに近いかな。でも、働くつもりだよ。もうオーパーツ研究はしないけどな」
「うん、賢斗は父を助けたかっただけだったものね」
「はは、バレてたか」
「わかるわよ、それぐらい」
新卒カードを棒に振ってでも、父の助手を務めてくれた賢斗には感謝しかない。
大して興味も関心もないオーパーツ研究に付き合って、父と一緒に海外を飛び回っていたことも。賢斗が実は飛行機が苦手だと知ってからは尚更だ。
「せっかくポルトガル語を話せるようになったんだから、日本にいるブラジル人の子どもたちの学習支援をしたいと思ってる。向こうで助けてもらった恩返しみたいなもんさ」
「それ、いいわね! うちの学校にも何人かいるけど、ボランティアの数が圧倒的に足りないのよね」
「ボランティアだからだよ。それをビジネスにするつもり」
「ビジネス? 子どもを食い物にするの?」
私が眉をひそめると、賢斗は慌てたように「違う違う!」と手を横に振った。
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