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第1話 義務的な夫婦
「いってらっしゃいませ、オーバル様」
馬車に乗る夫――アレクトラ侯爵家当主オーバルの背中に向かって、ソフィアは頭を下げた。侯爵夫人であるソフィアの後に続くように、周囲にいた使用人達も城の主に深々と礼をする。
しかし、オーバルは振り返らなかった。
長めの金髪を揺らし、ただ一言、
「行ってくる」
そう告げると、馬車の中に姿を消した。
主が乗り込んだのを見届けた御者が手綱を握ると、車輪が石混じりの土を踏む音を響かせながら、馬車が動き出した。
ソフィアは、馬車が見えなくなるまで見送っていた。馬車が視界から消えてもソフィアが動こうとしなかったため、侍女長が声をかける。
「奥様、そろそろ中に戻りましょう。お風邪を召されたら大変です」
「ごめんなさい。そうね、中に入りましょう」
侍女長の言葉に、ソフィアは恥ずかしそうに頬を赤らめた。何故なら、馬車を見送りながら、頭の中ではオーバルのことを考えていたからだ。
女性である自分ですら見惚れてしまう、艶やかな金髪。意志の強そうな印象を与える少し太い眉に、切れ長な紫の瞳。太くはないが細すぎるでもない、バランスのとれた頬の肉付きに、形の良いの顎。
一見細身に見える体だが、毎朝、近衛騎士たちの混じって訓練をしているため、非常に鍛えられていることを、ソフィアは知っている。
眉目秀麗という言葉を体現したような彼だが、ソフィアのイチオシは彼の手だ。華やかな容姿とは正反対に、彼の手は大きくゴツゴツしている。
恐らく長い間、剣を握って訓練を続けてきたせいなのだろうが、
(あの美貌と、長年剣を握ってきた手とのギャップが堪らないのよね……)
無意識のうちに吐き出していたため息に気付き、慌てて気を引き締めた。
オーバルが不在の今、侯爵家を守るのは妻の役目なのだ。
侍女長に促され城の中に戻ると、執事が近付いてきた。今度開かれる晩餐会の準備について尋ねられたので指示を出す。
お茶会や晩餐会などの催しの準備は、妻の仕事だ。トラブルでも起ころうものなら、夫の評判を落としかねないため、余計に気を引き締めて準備しなければならない。
オーバルが何の心配もなく、優秀な能力を発揮出来るように支えること。
アレクトラ侯爵夫人という役割を完璧にこなすこと。
それが ソフィアにできる償い。
だから、
(オーバル様が私を愛さなくてもいい)
こちらを振り向くことなく出発した夫の後ろ姿を思い出しながら、ソフィアは静かに目を伏せた。
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